下落合の諏訪谷に面した曾宮邸Click!に、佐伯祐三がしばしば訪れていたことは以前にも書いたClick!とおりだ。佐伯は『下落合風景』シリーズClick!を描いたあと、使っていたイーゼルや絵道具を曾宮一念にプレゼントし、二度目のパリへ向けシベリア鉄道経由で日本を去った。やがて、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲で、曾宮邸に残された佐伯のイーゼルは焼けてしまうが、細かな絵道具のほうは曾宮家の疎開先で無事だった。
★その後の調査で、イーゼルは曾宮一念が空襲前に疎開させて無事Click!なことがわかった。
 1927年(昭和2)の暮れに、曾宮のもとへパリから1通の絵はがきがとどいた。それには佐伯の読みにくい字で、「少し体が疲れたので遊んでいます」と書かれていた。曾宮は彼の身体を心配し、翌年に渡仏する予定の遠藤医師へ、佐伯の病状を見舞うように依頼する。ほとんど同時期、身内の死や病気があいついで、曾宮自身も1928年(昭和3)の夏から秋にかけて体調を崩し、長期入院をしてしまうことになる。
 病室で、佐伯の絵が新聞で紹介されているのを見て、曾宮は佐伯が二科展へ出品するためにパリから作品を日本へ送ってきたのだと考えたらしい。ところが、新聞に掲載されていた絵の写真と記事は、佐伯のパリでの死亡を伝える訃報だったのだ。曾宮の入院生活は9月中旬までつづくが、帰宅したときにようやく、彼は佐伯の死に気づくことになる。
 曾宮一念が入院中、諏訪谷の自宅では夫人が生活をしていたが、1928年(昭和3)8月のある日、パリにいるはずの佐伯祐三が訪ねてくる。数多く出版されている曾宮自身の手記から、その箇所を引用してみよう。
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 昭和ニ、三年という年は私にとって最悪の年であったが、又佐伯にも最悪であった。私は三年の夏入院中の床で佐伯の画を新聞紙上で見た。二科展は例年八月に陳列するから、彼の紙上の作品も当然それだろうと思って、「遺作」の文字を見のがしたのである。その春「少し身体が悪いからブラブラしている」というはがきをもらったけれど、そのブラブラを言葉通りに解していた。彼には結核があったから、ちょうど知合いの医師がパリに行くので、相互によかろうと佐伯を紹介した。しかしその時すでに彼は死んでいた。
 妻の話であったが、明け方庭先で佐伯が「曾宮さーん今帰った」と声をかけ、それで眼が覚めたという。佐伯の死を知らない時で、その幻聴は彼の死期に合うらしい。彼にとっても最悪の年であったけれども、初めての外遊の時以上に傑作が生まれた悲しい最良の年だったとも言える。
                                    (曾宮一念「佐伯祐三」1968年より)
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 このエピソードは、いく度か記された曾宮の回顧録に、何度も繰り返して登場しているので、よほど印象に残った出来事だったのだろう。佐伯は目白駅へと向かう途中、足の不自由な米子夫人を連れて、曾宮邸に立ち寄っては一服していったようだ。イーゼルや絵道具を贈るほどだから、よほど親しかったのだろうか。
 「曾宮さーん今帰った」と叫んで現れるほど、佐伯はなにを曾宮に伝えたかったのだろう。曾宮邸に現れた佐伯の幽霊は、かんじんの1930年協会の仲間だった「森た(田)さんのトナリ」にあった里見勝蔵邸Click!外山卯三郎邸Click!笠原吉太郎邸Click!には姿を見せていないようだ。

■写真上:左は、「曾宮さんの前」Click!の現状。右手の駐車場が、曾宮一念の自宅兼アトリエ跡。右は、庭先から諏訪谷方向を描いたとみられる曾宮一念の下落合風景。以前にご紹介した洗い場のある諏訪谷と同様、1925年(大正14)に二科へ出展された作品。
■写真下:左は、1936年(昭和11)の空中写真に写る曾宮一念邸(アトリエ含む)。右は、1947年(昭和22)に撮られた空襲後の焼け跡。