江戸の街中へ、網の目のように張りめぐらされた水道管Click!は、深く埋設されたところでは問題はなかったけれど、各町内の地下を流れる同じ暗渠でも、水道管が浅く埋められたところでは事情が大きく異なっていた。現在の水道のように、ポンプで水圧をかけていたわけではなく、自然の落差を利用しての水流だったので、どうしても埋設に深い浅いの差が出てしまう。神田上水(現・神田川上流域)には、水道水が汚されないよう水道番(水道見廻り役)Click!が随所に配置されていたことは何度か書いているけれど、実は江戸の街中にも水道番が存在している地域があった。
 神田上水や玉川上水などから引かれた水道水は、千代田城の周囲から暗渠化されることが多かった。城内は開渠ではなく、ほとんどすべてが暗渠の水道管だったと伝えられている。でも、上水から取り入れられたばかりの地域は、いくら暗渠といっても水道管の埋設深度は浅い。最初から深く埋めてしまうと、下町全域に水道水が行きわたらないからだ。水道管を浅く埋めたところは、その上を重いものが通ったりすると石樋や木樋が痛むということで、道路状の空地となっているにもかかわらず、水道番を置いて人々の通行を禁止していた。だから江戸の街中、水道の流れが直接見えないところにも、水道番が見まわりをしていたのだ。
 
 でも、たとえば御留川である神田上水にゴミを棄てたり、農作物を洗ったりして水道水を汚すことに比べれば、ずっと規制はゆるやかだったようだ。神田上水を汚せば、たちまち“お縄”となって重い刑罰を科せられたが、街中の水道管の上を誤って通行したとしても、叱責を受けるぐらいで済んでいたらしい。水道管がことさら浅く埋められていた、赤坂から虎ノ門あたりの道筋にかけて、当時のこんな逸話が篠田鉱三の『明治百話』(岩波書店)に収録され残っている。
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 赤坂見附から、虎の門寄工学寮の原(といったもので)まで、水道が埋没してあって、五間幅の道がズーッと通っていました。その道は歩いてはならぬとあって、低い木柵で区切ってありました。人が歩かないから、草ッ原になっていて、その草ッ原は斜めに、人の歩くとこだけは、草が生えない。低い木柵で、女でも跨げるくらいで、唯だ水道の木管の上だから、なるべく歩かないようにと、歩いていたら叱るだけの仕切りですから、水道見廻人が来ない時は、縦横自在に通れたものの、歩かないとこもありますから、草は生えはびこり、勿体ないくらいに、空地があったもんです。
                                         (「赤坂溜池の変遷」より)
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 ダメだと言われれば、よけいに通りたくなる天邪鬼が多い江戸の街のことなので、権威をカサにきた水道番を出し抜こうと、ずいぶん追っかけっこが行われたに違いない。赤坂や虎ノ門あたりというと、玉川上水の水道木樋が埋められていたのだろう。江戸の水道網は明治の末まで使われつづけるので、水道番も江戸期からそのまま引きつづいて置かれていた。
 
 昭和初期、目白・下落合界隈に水道が引かれた、荒玉水道工事Click!のことを以前に書いたけれど、面白いことに水道管が埋設された道筋では、いまでも同じような現象が見られる。水道管が浅く埋められた道路は「水道道路」と呼ばれ、やはり厳しい通行規制があるのだ。中野の南から、世田谷の砧浄水場までつづく「荒玉水道道路」がもっとも有名だが、人の通行は自由だったものの、クルマは1962年(昭和37)まで通行禁止だった。
 荒玉水道道路は、現在でも、4トン以上のトラックの通行は許可されていない。でもさすがに、水道番を置いているという話は聞いたことがないけれど・・・。

■写真上:本郷給水所公苑に再現された、江戸時代の水道管の主管である「万年石樋」。
■写真中:左は、同公苑内の開渠。右は、尾張屋清七版「礫川・牛込・小日向絵図」(1860年・万延元)。神田上水が、開渠から暗渠へと変わる水戸徳川家上屋敷(後楽園)のあたり。
■写真下:左は、荒玉水道の水道管埋設工事。荒玉水道道路の筋だろうか、1,100粍(ミリ)管の太い水道管が埋められている。右は、永福町あたりの真っ直ぐな荒玉水道道路。