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東京市街から見た文化村イメージ。 [気になる本]

 昭和初期の春陽堂を代表する小説家に、佐々木邦(1883~1964年)がいる。学生時代から小説を書いているので、明治末からの作品が数多く残っている。戦後は『ユーモアクラブ』を創刊して、いわゆるユーモア小説の分野を切り拓いた第一人者だ。大正期から昭和初期にかけて、当時の“勤め人”(サラリーマン)を主人公にした作品が多く、この流れは戦後、源氏鶏太らへと受け継がれていった。わたしはあまり面白いとは思えず、読んでもほとんど笑えないのだけれど、当時の人たち、特に当時のサラリーマンには身につまされる話も多く、たいへん人気があったようだ。
 そんな佐々木邦の作品の中に、『文化村の喜劇』という作品がある。1926年(大正15)に書かれた作品で、のちに1931年(昭和6)出版の『佐々木邦全集』(全8巻/大日本雄弁会講談社)の第3巻にも収められているので、当時はかなり人気のあった作品だと思われる。その後、娯楽に飢えていた戦時中、1942年(昭和17)に『文化村綺談』(長隆舎書店)とタイトルだけ変えて、中身はほとんどそのまま再出版されているのだから、よほど読者の記憶に残ったのだろう。
 佐々木が本作を書いたころは、1922年(大正11)から箱根土地によって売り出されていた「目白文化村」が、第四文化村までの販売を終えたころ、つまり目白文化村の全貌が姿を現した時期と一致している。のちに、「荻窪文化村」も誕生することになるのだが、おそらく著者は目白文化村を横目でチラチラ眺めつつ『文化村の喜劇』を書いていったのではないだろうか? ただ、実際に目白文化村で取材して書いたかどうかは、ちょっと疑わしい。文化村=西洋館だけの街並み・・・という先入観があるようで、半分は和建築だったといわれる文化村の実情とは一致しない。また、生活描写もハイカラな文化村の生活にしては、やや古臭い感じがする。
 目白文化村は、目白と名前が付くにもかかわらず、目白駅からは遠い。徒歩だと15~20分、バスだと6~7分はかかる。当時のトロトロ走るダット乗合自動車だったら、10分以上はかかったかもしれない。だから、目白駅近くではなく下落合の西部だということで、地元では「落合文化村」と呼ばれることも多かった。『文化村の喜劇』は、こんな出だしで始まる。
  
 山岸君が去年の暮に工を竣つて移り住んだ文化村は、
 『駅から十分です。近いです。』
 という申合せになつてゐるが、実は可なり遠いのである。山岸君も工事中幾度も計つて見たが、駈け出さない限りは十五分たつぷりかゝつたから、矢張り運動の為めにはこれぐらゐある方が好いと諦めた。山岸夫人は二十分かゝると言つてゐる。
 『それも急いでよ。』
 とあるから、しやなりしやなりと蓮歩をお移しになれば、二十五分はかゝる。
  
  
 当時は、道が舗装されていないので、雨が降るとぬかるみになってたいへんだったようだ。物語でも、「山岸君」が帰宅途中でぬかるみに足を取られ、泥の中に靴がはまり込んで取れず、奥さんに「発クツ調査」を依頼する場面が出てくる。また、文化村の人はステッキを手放さず、夜は追いはぎに備え、昼間は狂犬をたたき伏せるために使うのだ・・・などということが、まことしやかに語られていく。目白文化村でステッキが流行ったなどということは、聞いたことがない。
 文化村の住民たちは、東京市街から少しでも同僚や友人達たちを文化村へと引っ越させ、「不便さを共有」させようともくろんでいる。休日というと、文化村へ招待しては便利な生活を宣伝して、少しでも多くの人たちが文化村へ住むよう、まるで不動産屋のような活動をしている。実際の目白文化村は、第一文化村は1年以内に、第二~第四文化村も2~3年で売り切れているので、小説とは異なりかなり人気が高かった。でも、便利な東京の市街から見て、当時の郊外だった文化村をイメージすると、きっとこのように映っていたのだろう。
  
 文化村へ差しかゝつた時、
 『まあ、西洋建築ばかりでございますわね。』
 と小栗夫人は驚異の眼を見張つた。青葉を背景にして区々別々の形状と色彩の西洋館が建ち並んでゐる文化村は実際目立つ。最初から申合せたやうに日本家は一軒もない。同じ値段なら誰しも最近流行の新型の方へ手の出るのが人情、まして純日本式より安上りとあれば、皆文化住宅を拵える。
 『万事市内よりも、此方の方が進歩してゐる。山岸君、台所は電熱だらう?』
 と小栗君はもう決心がついて、細君を納得させに連れて来たのらしかつた。
 『然うですよ。瓦斯よりも余程便利だと言つて妻は喜んでゐます。台所だけは自慢ですから、何うぞ御覧下さい。』
 と山岸君は要領が好い。奥さんに直接答へてゐた。細君を説き落すには台所が急所だといふことを経験上承知してゐる。
  
 
 わたしが、クスクスと笑ってしまったのが2箇所ほどある。ひとつは、「一品会」という骨董の集まりを文化村で開くことになり、代々伝わる家宝を持ち寄って自慢大会を開こうという場面だ。新興住宅地である当時の文化村に、伝来の骨董品などおいそれと眠っているわけがない。住民たちは、関東大震災で火をくぐった古道具を買いに、あわてて下町まで出かけて行き、「旧藩主から拝領した品々」をそろえていく。
 もうひとつは、文化村が嵐にみまわれる場面。東京市街から「山岸君」宅へ、文化村への移住を勧めている奥様たちが集まっていて、豪雨と雷の大嵐に遭遇してしまった。「私、家が心配になりますわ」としきりに不安がるお客に、ふだんは東京まで近い近いと言っているのに、つい「東京は大丈夫でございますわ。遠いんですもの」と慰めてしまうシーンだ。
 『文化村の喜劇』は、実際の住民と物語中の住民との階層設定にズレがある。本作に描かれたような、当時の大卒だった普通のサラリーマンは、親が資産家でもない限り目白文化村へ家など建てられなかっただろう。目白文化村の場合、会社勤めの住民は意外に少なく、また実際に住んでいたのは会社勤めでも役員クラスの階層だった。
 でも、大正当時の(御城)下町Click!の人々が、東京西部の山手線内外に形成された“新山手”を、どのようなイメージで見ていたかがわかる、『文化村の喜劇』は興味深い作品だ。

■写真上:『佐々木邦全集』第3巻の巻頭に描かれた、ちょっとアンニュイな“文化村夫人”。
■写真中が、1931年(昭和6)出版の『佐々木邦全集』(大日本雄弁会講談社)。が、まったく同内容で再出版された、1942年(昭和17)の『文化村綺談』(長隆舎書店)。
■写真下:『文化村の喜劇』に掲載された、河盛久夫の挿絵。が、奥さんが鍬をふるう「発クツ現場」。は、家の中に入ってくるヘビを撃退する女中。ヘビClick!は、いまでもやってくるが・・・。


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ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2009-12-15 12:04) 

ChinchikoPapa

nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-06-06 18:30) 

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