子供の時分に、母方の祖父の家に遊びに行くと、刀や焼き物、絵画はなかなか触らせてくれなかったけれど、好きなだけ遊んでいいものがあった。無数のおカネだ。孫に遊ばせるほど、祖父がお金持ちのにわか成金だったわけではない。どのおカネも、現代ではもはや通用しない江戸時代から第二次世界大戦前後にかけての、貨幣や紙幣の類。特に、時代劇などでしか見たことのない江戸期の貨幣類は、わたしの格好の遊び道具となっていた。銅銭を投げては障子や襖に穴を開け、いったい何度叱られたことだろう。
 遊びに出かけると、わたしは祖父に“おカネ”をねだっていたのだが、そのたびに、祖父は古いおカネを気前よく分けてくれた。いまから考えると、江戸時代から戦前までの古銭なんかより、現実に通用するおカネをもらっておけばよかった・・・と、悔やむことしきりなのだけれど。(爆!) いまでもわたしの手元には、江戸期から太平洋戦争前後にかけて東京(江戸)で通用していたおカネがたくさん残っている。これら古銭の材質やデザインを、各時代で比較するととても面白い。
 太平洋戦争前後のおカネを見ると、紙幣の紙質や印刷技術はそれほど落ちていないものの、貨幣が悲惨なことになっている。戦時中の金属不足で、貨幣に薄っぺらなアルミニウムが多用されて、なんともみじめなおカネに変わり果ててしまう。表裏のデザインも、アルミ貨では表現に限界があったものか、どんどん単純化してつまらなくなっていく。資源がほとんどない日本で、モノが日々いかに乏しくなっていく時代だったかが、貨幣の鋳造年を追って見ていくと一目瞭然なのだ。しまいには、焼き物のおカネも試作されたというけれど、残念ながら祖父の家では見かけなかった。
 1942年(昭和17)から、戦後の1948年(昭和23)ぐらいにかけてのおカネが、特にひどい。ほとんど子供のオモチャのような出来で、実際に通用したのかどうかさえ危ぶまれるほどだ。図柄もいい加減で、どこか投げやりな雰囲気さえ感じられる。造幣技術がまったく発揮できない素材なので、おそらく技術者もやる気が起きなかったのだろう。
 
 それに比べて、昭和初期の貨幣はよくできている。祖父にもらったものではなく、親父が若いときに使っていた押入れの行李の中から、50銭銀貨が驚くほどまとめて出てきたことがあった。親父が子供のころ、小遣いとして毎日もらっていた贅沢な銀貨なのだが、つかいきれずにどんどん貯まっていき、とうとう行李貯金となったものらしい。鋳造年を見ると、大正12年から昭和10年ぐらいにかけての50銭銀貨だ。尋常小学校に通うような子供が、行李に銀貨を貯めているのも困ったことだけれど、毎日つかいきれないほどの小遣いをやって、自分は観劇に習いごとに日本橋三越にと、遊ぶのに忙しい母親(祖母)Click!には、さらに困ったものだ。教育上かなりよろしくないのだけれど、親父は街の不良や大川の“みずすまし”Click!にもならず、マジメに進学していったのだから結果オーライというべきか。かくして、大量のつかえない50銭銀貨がわが家に残ることとなった。
 
 大正から昭和初期にかけての50銭銀貨は、いまでもその重厚さや輝きを失っていない。きっと材質にもよいものが選ばれて、ていねいに鋳造されたからだろう。それに比べると、太平洋戦争を挟んで発行された貨幣は、くすんで磨り減って、いまにも朽ち果ててしまいそうなものもある。きっと、空襲の火をくぐったものもたくさん混じっているのだろう。道端に落ちている、誰にも見向きもされない薄汚れた1円玉のようなものが多い。
 こんな子供だましのようなカネをつかわなければならない時代は、もう二度とゴメンだ!・・・という親父の吐き棄てるような言葉が、アルミ貨を手にとって眺めていると、耳もとでよみがえってくるようだ。

■写真上:江戸時代の銅銭各種。「寛永通寶」がもっとも多いが、幕末の「文久永寶」や清朝の「乾隆通寶」なども混じっている。江戸の町では、中国銭もゴッチャでつかわれていたのがわかる。
■写真中:左は、「紀元二千五百九十八年」(1938年・昭和13)の50銭紙幣。右は、1943年(昭和18)の50銭紙幣。貨幣の粗悪化に比べ、紙幣の品質はそれほど落ちていない。
■写真下:左は、吹けば飛ぶようなアルミ貨。1940年(昭和15)から1948年(昭和23)ぐらいまでの貨幣が混じる。右は、親父の行李から出てきた図案も細かく精細で凝っている、大正期から昭和初期にかけての50銭銀貨。現在の500円硬貨よりも、ズッシリとしてよほど立派だ。