子供のころ、初めて観た怪獣モノやアニメではない映画を思い出そうとしてたら、映画館ではなく、おそらくNHK教育テレビかどこかで放映された『未完成交響楽』(ウィリー・フォレスト監督/1933年)にたどりついてしまった。子供向けの映画ではもちろんなく、「いっしょに観てもいい」と親から特別に許可された大人の映画なので、ことさら印象に残っているのかもしれない。小学1~2年生、確か低学年のころだった。
 『未完成交響楽』は、フランツ・シューベルトの青春を描いたものだけれど、およそ史実とはかけ離れた内容だったことに気づくのは、しばらくたってからのことだ。それまでは、音楽室に掲げられたシューベルトの肖像と、『未完成交響楽』でシューベルトを演じるハンス・ヤーライが、「ほんとにソックリじゃん!」ということ以外、特に子供の興味を引くストーリーではなかった。
 でも、シューベルトが失恋をして、というか、「失恋」自体がどのようなものか小学生にはわかるはずもなく、彼がどうやら好きだったみたいな貴族のお姉さんとの仲を引き裂かれ、相手にされなくなったとき、こうべをたれて失意に打ちひしがれながら、ハンガリーの広大な田園地帯をトボトボと歩いていく。すると、道端に聖母マリアの素朴な石像を見つけて、ジーッと見つめているうちに、美しいメロディーが泉のごとく湧きあがってくる・・・というシーンだけは、なぜか鮮明に憶えている。それが、もちろん『アヴェ・マリア』なのだが、いまでもこの曲が好きなのは、きっとこの映画に起因するのかもしれないし、交響曲第8番ロ短調(現在は第7番とされることが多い)を気軽に口ずさめるのも、ひょっとしたらこの映画の影響なのかもしれない。
 戦前のこんな古くさい映画を、親父はなぜわたしに見せたのかは知らないが、きっと少年時代に日本橋の映画館で観ていて、ことさら印象に残った作品なのだろう。シューベルトに好意を寄せる質屋の娘から借りた燕尾服を着て、質札をぶらさげたまま宮廷の音楽会へと出かけていくシーンをはじめ、どこかユーモラスで垢抜けないシューベルト像は、スマートでダンディなヒーロー作品の多い当時としては、妙にリアリズム追求型のめずらしい作品だったのかもしれない。恋に絶望したシューベルトが、交響曲第8番の第3楽章楽譜を「この曲が終わらざるが如く、我が恋もまた終わることなし」(逆かな?)と書いて、ビリビリに破いてしまう終盤には、野暮ったかったはずの彼の姿がどこかカッコよく見え始めてしまうのも、監督による計算ずくのねらいだったのだろう。交響曲第8番が、なぜ第2楽章までしかないのかは、シューベルト本人と神のみぞ知る・・・なのだが。
 
 先日、近衛秀麿Click!のディスコグラフィーを調べていたら、現在CDで入手可能なのは読日響との杉並公会堂録音ほか数枚だけ・・・というのを知った。その1枚が、シューベルトのNo.8(現在はNo.7)と、ベートーヴェンNo.5とのゴールデンカップリングだった。両曲とも聴くのは久しぶりなのだが、近衛指揮のシューベルトは、ジュリーニやC.クライバー、スウィトナー、ベームなどを聴いてきた耳には、いかにも地味で中庸でオーソドックスに感じる。だからというべきか、それほど抵抗感も違和感もなくすんなりと聴き終えた。ことさらシブくて、ちゃんとお約束どおりで安心・・・と感じてしまうのは、わたしがそろそろ年を取ったせいだからだろうか?
 第1楽章の冒頭が鳴りはじめると、わたしはいつも質札をさげたハンス・ヤーライのうしろ姿を思い浮かべてしまう。親たちも、同じ情景を想い描いていたのだろうか。女との放蕩に明け暮れ、梅毒の悪化と腸チフスにより31歳で死んだシューベルトの実像は、どうやらこの作品の中にはないけれど、もう少し違う生き方をしていたら、こんなエピソードを抱えた彼の姿もありえたのかな?・・・などと感じさせてしまう、もうひとりのリアルなシューベルト像ではあるのかもしれない。

■写真上:ウィリー・フォレスト監督『未完成交響楽』(ドイツ=オーストリア合作/1933年)。ハンス・ヤーライのシューベルトはそっくりだけれど、人気女優マルタ・エッゲルトによるカロリーネ嬢は実物のほうが美しいと感じてしまうのは、わたしだけだろうか?
■写真下:左は、近衛秀麿=読売日本交響楽団の『ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調/シューベルト:交響曲第8番ロ短調』(1968年2月21日/PLATZ/PLCC-740)。かろうじて在庫切れになっていない、近衛秀麿CDのうちの1枚。右は、映画ではシューベルトの恋人ということにされている、カロリーネ・エステルハージ伯爵令嬢の肖像。恋人だったという裏付けは、どこにも存在しない。