三井越後屋(明治以降は三井呉服店→三越呉服店)を、三越デパートメントに脱皮させた伝説の男がいた。呉服店をやっていても先が知れているので、デパート(なんでも百貨店)にしちまおうと強引に舵取りしたのは、三越の総帥ではなく役員のひとり、日比翁助という男だった。戦前まで下町では、デパートといえば日本橋三越、三越デパートといえば日比の名前が出るほど、地元ではその数あるエピソードとともに語り草になっている存在だ。
 欧米のデパートをいち早く視察してまわった彼は、日本で初めて総合百貨店というコンセプトを導入しようとする。あらゆる日用品から、肉や野菜の生鮮食料品にいたるまで、店に来ればすべてがそろう百貨店の発想など、江戸期からつづく専門店が当たりまえだった明治期には、誰も信じられないほど革命的なことだった。当然、周囲のほとんどすべてが抵抗勢力だったろう。三越がなんでも屋になるなど、当時は「まったくありえない」奇想天外なことだったのだ。
 計画を強引に推し進めた日比は、途中で心労がこたえたせいか病気になってしまうけれど、それでも三越デパートの実現に突き進んでいった。結果は、三越デパートの開店とともに、最大のライバルだった白木屋(旧・東急百貨店)は大打撃を受け、日本橋旅籠町の大丸は店を閉めて、二度と日本橋にもどることができなかったのだ。日比翁助の、奇想天外なアイデアの勝利だった。東京じゅうの大手呉服店は、軒並みデパート化への道をあわてて歩みはじめる。
 
 日本で初めて大規模なデパートを開店するにあたり、試行錯誤を繰り返した日比は、こと細かな「店員心得」を考案した。その中に、デパートへとやってくるお客が単なる買い物だけではないことを、早くから見抜いて分析している。彼の顧客分析は、今日のデパートでも通用しそうだ。
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 お客様といえば一列一体、ただ買物にのみ来店する人々と思わば、そは三越の小僧として大なる不覚なり、大間違いなり。三越の盛大につられて、のんきに遊ぶ人々と見るも了見違い、むしろ自惚れの骨頂と謂うべし。何となれば、仮にお客様を区別して見れば
 (一)買物の御客様
   これは単に買物を目的に来られる御客様なり。
 (ニ)娯楽の御客様
   これは子供衆を同伴、一日を楽しみの御客様なり。
 (三)怒れる御客様
   これは家庭にて何か怒ることありて、気散じの御客様なり。
 (四)泣いている御客様
   これは家庭にて何か争いごとまたは煩悶ありたる御客様なり。
 (五)困っている御客様
   これは家庭に事情あり憂晴しの御客様なり。
 (六)贔屓の御客様
   これは何でもかでも三越に限るという御客様なり。
 (七)不贔屓の御客様
   これは三越は高い贅沢なりといいながら見える御客様なり。
 (八)見物の御客様
   これはわざわざ地方より上京観覧さるる御客様なり。話の種となるなり。
 (九)病気の御客様
   これは神経の過敏なる御客、腫物の如き御客様なり。
 (十)同業の御客様
   これは批評家たるべき御客様なり。大事なり。
 かくの如き多数の客気質あるを知らず、同一に一本調子の扱いする小僧は新米小僧にあらざれば横着小僧なり、逸早く御客様のこの種類に心付く小僧あらば、そはまさしく智恵小僧なり。
                                      (未刊「三越小僧読本」より)
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 わたしは、(七)に該当するだろうか。セグメント化された顧客像の中に、ウサ晴らしやビョーキのお客、はては三越ギライのお客まで含まれているのが面白い。三越にやってくるお客は、それがどんな客でも「御客様大明神」として迎えた日比の思想が徹底していたせいか、親の世代までは日本橋界隈でデパートといえば、三越以外には「ありえない」ことだった。
 いまだ、日本橋三越の包装に喜ぶお年寄りが、下町にはたくさんいる。「三越神話」は、新宿周辺の乃手界隈でいえば、ちょうど神田出自の老舗である「伊勢丹神話」に相当するのだろう。

 三越デパートのビルを建設している最中に、日比翁助は病に倒れた。そして、完成直後の店内を見まわったとき、彼は大きな不満を口にする。設置を予定していた、日本海海戦の旗艦・戦艦「三笠」の司令官室が移築されていなかったからだ。そう、彼は戦艦「三笠」の東郷平八郎の艦室を、そのまま丸ごと三越デパートへ運んでこようとしていた。病気の療養中に、他の役員が「ありえねえぜ」と思ったのかどうか、日比の承諾を得ず勝手に移築を取りやめてしまったらしい。
 もし移築されていたら、はたして日本橋三越Click!はどうなっていただろう。屋上に掲げられる社旗の横に、Z旗でもひるがえっていたのだろうか? まさに、デパートという概念が21世紀に生き残れるのかどうか、事業の興廃はこの一戦にかかっているのかもしれない。

■写真上:これも日比のアイデア、日本橋三越のライオン像。デパートの中に食堂を設けたのも彼のオリジナルだ。「今日は帝劇、明日は三越」と詠われた、下町がもっとも輝いていた時代。
■写真中:同じく、日本橋三越本店。親に連れられ、わたしがもっとも出かけたデパート。
●地図:昭和初期の大日本職業別明細図(いわゆる商工地図)の「日本橋区/神田区」(1933年・昭和8)。いまだ「三越呉服店」と書かれているので、日比が生きていたらおそらく不満だったろう。
■写真下:商工地図「日本橋区/神田区」裏面の百貨店広告では、老舗の三越や白木屋のさりげなさに比べ、新参の大阪・高島屋が大きな紙面を買って「これでもか!」広告しているのが面白い。