いまの住宅では、あまり見かけなくなった勝手口に、このような木製の牛乳箱があると、子供のころ寝床で聞いた冬の朝の音を思い出す。空気が澄んでいるせいか、カチャカチャという空き瓶が触れ合う金属的な音のあとに、中身が入ってズッシリとした牛乳瓶の入れられる音がつづく。パタンと、ふたの閉まる乾いた音がしたかと思うと、荷台に載せた牛乳箱の瓶を鳴らしながら、自転車が少しずつ遠ざかっていく。
 その音が聞こえると、母親が起きだす気配がして、まだ暗く冷えたどこかの部屋に灯りがともり、ガスストーブのつんとする匂いが、わたしの寝ている2階の寝室まで漂ってきた。海が荒れているのか、地鳴りのような低音が背中から這い上がってくる。小雨でも降っているのか、それとも風に運ばれた砂がたたきつけられているのか、鎧戸の向こう側が少し騒がしい。霜柱を踏んで歩く、通勤者の足音がきれぎれに聞こえる。遠くで、湘南電車の警笛が鳴った。
 海の音はともかく、下落合でも冬の朝にはこのような情景が繰り返されたのではないだろうか? わたしが子供のころ住んでいた界隈には、近くに牧場があったせいか、そこで加工された新鮮な牛乳や生クリームが毎朝とどいた。昔の地図をひっくり返していると、目白・下落合界隈も牧場だらけだったことに気づく。山手の住宅街へ新鮮な牛乳をとどけるために、それほど広くないスペースにホルスタインやゼルシーなどの乳牛を飼っていた、いわゆる「東京牧場」Click!だ。残念ながら、下落合には牧場はなかったようだが、目白通りの周辺には中小の牧場や加工する工場、牛乳販売店、牛乳とともにパンなども売るミルクホールなどが軒を並べていた。

 目白通りから北へはみ出した下落合、ちょうど目白聖公会のある並びには、ハインリッヒ・フォン・シーボルトの次男でオーストリー=ハンガリー帝国の一等書記官だったフィリープ・フォン・シーボルト(小シーボルト)の妻・はな(花刀自)が経営する、ミルクホール「清同舎」が開店していた。東京同文書院Click!の留学生や、目白中学校Click!の生徒たちも盛んに利用しただろう。この店で、近所の家々に牛乳や食パンを配達していた少年の記録が残っている。
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 私はこの英雄と近くの息子さんの家に毎日一合の牛乳を清同舎から運ぶ光栄に、何時も胸ふくらませておりました。
 石川家を素通りして西すれば、これも洋画家・大久保作次郎のお宅で、ここは食パンを一週間位で三斤棒一本消費される、大の御得意でした。残念なことに池袋にあった東京パンのうまい食パンも殆んど消しゴム代りにつかわれたものの如しでした。
 この辺りの近くには中国関係の志士川島浪速氏が隠棲しておられました。皆様御承知のように、清朝太宗以来、代々の親王家に生まれました粛親王善耆氏は、清朝危機の際、自らの娘をこの川島氏に託しました。  (岩本通雄『江戸彼岸櫻』より)
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 いまでも、牛乳配達は昔と変わらずにつづいている。一時は紙パックとなった牛乳容器だけれど、再びガラスの牛乳瓶にもどって、空き瓶は毎朝回収されている。配達は、自転車ではなくスクーターへと変わったが、空き瓶が触れ合う音は昔のままだ。ひとつ残念なのは、牛乳の配達箱が木製ではなく、プラスチック製になってしまったこと。釣果を入れるクーラーボックスのような外観で、いつまでたっても馴染めない。配達し終えると、パタンと乾いたふたの音がしなくなってから久しい。
 早朝、たまたま目がさめているとき、牛乳が配達されたあとパタンという音がしないかどうか期待している、子供のころのわたしがいる。

■写真上:「秋広牛乳」文京出張所の牛乳箱。上野・不忍池近くにて。
●地図:目白通りや山手線沿いなど、牛乳輸送に便利な立地に展開していた「東京牧場」。
■写真下:左は、高田町鶉山1455番地(現・雑司ヶ谷3丁目)にあった北辰舎牧場。右は、昭和初期に見られた東京保証牛乳株式会社の配達箱。ともに、豊島区郷土資料館『ミルク色の残像』より。