いましも薄暗い森を出て、陽の当たる明るい道へ出ようとしている情景だ。突き当りには昔風な和建築の門があり、家が数軒建ち並んでいるのが見える。家々のかたちはずいぶん省略化され、どこか洋風な雰囲気さえ感じられる。光は右から当たっているので、右手が南側だろうか?
 1920年(大正9)に描かれた、里見勝蔵の『下落合風景』だ。佐伯祐三が『下落合風景』シリーズClick!を描きはじめる、さらに6年も前の作品ということになる。佐伯が下落合へアトリエを建設する1年前、鶴田吾郎Click!が曾宮一念のアトリエで『初秋』Click!を描いていたころに近い時代だ。中村彝が「目白風景」Click!シリーズをつづけて描いていたころと重なり、下落合はいまだ住宅よりも雑木林や田畑のほうが多かったころだ。この作品が、はたして下落合のどこの風景を描いたものなのかは、これだけの情景ではまったくわからない。作者のみぞ知る・・・だ。
 この作品を描いた当時、里見勝蔵は東京美術学校を卒業したばかりで、東京を引きあげ京都・四条高倉の実家へ帰っている最中だった。だから、京都からわざわざ東京へ出てきて、あえて『下落合風景』を描いたことになる。おそらく、下落合か長崎に住んでいた美校の同窓か画家仲間に会いにきて、ついでに近所を散歩しながらこの作品を仕上げたものだろう。その友人宅にしばらく寄宿して、近所へスケッチに出たような気がしないでもない。その友人とは、前田寛治か木下孝則、小島善太郎のいずれかだったものか。
 里見は翌年、フランスへと渡りヴラマンクへ師事することになる。その渡仏の相談をしに、1920年(大正9)の下落合界隈を訪れたのかもしれない。パリへと向かう前と帰国したあと、里見は東京と京都の実家との間を行ったり来たりしている。1926年(大正15)の『みづゑ』7月号に、里見勝蔵は寄稿している。
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 日本へ帰つたら気持ちのいゝ展覧会をしやうではないか。フオンテンブローのコロオ、ミレエ、ドーミエの一八三〇年派の様に愛と尊敬と芸術を持つた展覧会を起さうではないか---と話し合ふ時は実に嬉しくなつて熱烈な希望を持つて幾度もくり返して話し合つた。
 それ等の連中が日本へ帰つて各自二科会なり帝展に作品を発表した。そして私は安住の為故郷の母の家に往つて東京の木下、小島、前田と四人で展覧会する通知を受けた。私達はパリのモンパルナス附近に往つてキャフェロトンドのテラスで話し合つた記念としてモンパルナス或はロトントによる会名をつけやうと云つて来たが私はたつて一九三〇年協会と名づける様に主張した。 (中略)私達の希望は着々実現されるであらう。佐伯が帰つて来た。佐伯も加盟した。
                                (里見勝蔵「一九三〇年協会について」より)
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 パリからもどった里見勝蔵の表現は、一変していた。京都の実家へ一度はもどった彼だが、まもなく東京美術学校の師でもある森田亀之助邸Click!の隣り、佐伯祐三のアトリエにもほど近い、下落合630番地の「森たさんのトナリ」Click!へ家を借りて、下落合へ引っ越してくることになる。帰国後の里見が産みだす作品表現について、外山卯三郎は1928年(昭和3)の『中央美術』2月号に、こんな文章を寄せている。
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 まことに里見氏の絵はあざみの花である。薔薇色の婦人にとつて、此の絵は気絶を強ひる程粗暴な姿をもち、眼がくらむ程強烈なる生命に香りをはなつてゐる。然し人々よ、そこには限りなき広野の薫があるではないか、そこには明白なる個性の動悸が波打つてゐるではないか? その単純なる表現の中に限りなき彼の惠智の閃がひそむで居り、その明確な色彩の中には、幸な彼のシムフオニイがひゞいてゐる。 (外山卯三郎「曠野に咲く薊の花」より)
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 1925年(大正14)5月、1930年協会第1回展覧会が開催されてから、わずか5年後のまさに1930年(昭和5)に、1930年協会は空中分解してしまう。佐伯祐三と前田寛治の死によって、有力な幹部会員を喪ったせいもあるが、里見勝蔵自身が協会を飛び出してしまった。ほどなく、1930年協会の流れは独立美術協会へと受け継がれていく。

■写真上:里見勝蔵『下落合風景』(1920年・大正9)。
■写真下:左は、里見勝蔵『女』(1928年・昭和3)。右は、1954年(昭和29)にパリでブラマンクと再会した里見勝蔵。およそ、30年ぶりの再会だった。