わたしが下落合、あるいは目白文化村Click!アビラ村Click!界隈のことを調べたり歩いたり、取材したりするのに使用しているメイン地図のひとつに、「下落合事情明細図」(1926年・大正15)がある。モノクロでB全(0)大の大きさがあり、「落合新聞」の竹田助雄Click!の取材により、1964年(昭和39)に洋画家・刑部人(おさかべじん)邸内Click!から発見されたものだ。わたしは、おとめ山の自然を守る会の松尾徳三氏からお譲りいただいた。
 刑部人Click!邸に残っていた原図を反射原稿にして、その後、モノクロ版「下落合事情明細図」が1979年(昭和54)に、B全大という駅貼りポスターなみの大きさで印刷された。わたしが参照しているのも、また新宿歴史博物館が所蔵している同図も、モノクロB全大(1979年版)だ。でも、隣接する長崎町あるいは池袋の「事情明細図」、また高田町の「住宅詳細図」などは、すべてカラーで刷られたA全(0)版なのだ。だから、「下落合事情明細図」も本来は当然カラーで、もともとはA全サイズの大きさだったのだろう・・・と想像していた。だが、地元でいくら探しても、A全カラー版「下落合事情明細図」は出てこなかった。
 いまから、81年も前につくられた地図なので、もはやどこのお宅にも原図は残ってないのだろうとあきらめていた。だが、原図のカラーA全版は、意外なところに保管されていた。都立中央図書館の書架の中に、ひっそりと眠っていたのだ。以前にご紹介した、下落合界隈(淀橋区)の詳細が記載された「商工地図」Click!は国立国会図書館に保存されていた。地元の周辺ばかりを探していたわたしは、意外な盲点をつかれたかたちだ。カラーコピーを取っていただいたので、家でさっそくジックリと眺めてみた。

 刑部邸の原図と都立中央図書館のそれとは、地図の折られ方が違うので、いままでちょうど折り目にかかってかすれていた箇所もクッキリと見ることができる。なによりも驚くのは、既存のモノクロB全版に比べ、サイズが小さいにもかかわらず、はるかに鮮明だということだ。家々の住民名や番地が、はっきりと確認できる。モノクロB全版のほうは、おそらく製版過程で拡大する際に製版機のカメラ性能のせいからか、あるいは印刷の質の問題からか、線や文字、数字がかなりつぶれてしまっている。ところが、カラーA全版の原図では小さな文字まできれいに読み取ることができる。また、地図の記号類も明確だ。邸宅と住宅の区別、山林と植え込みの区別、大字境と隣町界の線別、商店と門マークの差なども容易にわかる。
 地図全体に入っているメッシュがブルーなのも新鮮だ。なによりもうれしいのは、道路と湧水源からの小流れがはっきり区別できること。モノクロ版だと、水流なのか小路なのか判然としなかったところが明らかになった。図書館に残された原図は色彩もよく残り、驚くほど保存状態がいい。この原図は、第二文化村のすぐ南側、一ノ坂沿いに家があった「シゲモト」宅から出たもののようだ。地図記号によれば、「シゲモト」家は商店ということになっている。場所からいって、植木屋さんでもしていたのだろうか? 「シゲモト」宅には赤鉛筆でマーキングされており、第二文化村から第一文化村を通り抜けて、目白通りへとたどる道順が赤鉛筆で記載されている。おそらく、目白通りの長崎交番横にあったバス停「文化村」Click!へのコースをたどったものだろう。

 地図下部の“案内記”には、「郊外住宅地トシテ最モ理想ノ地ナリ最近西武電車ノ開通アリ」と書かれているが、1926年(大正15)現在、西武電気鉄道の線路は貨物輸送線としてすでに敷かれていたのかもしれないが、客車運行が始まっていなかったため駅がいまだ記載されていない。翌年(1927年・昭和2)4月の客車運行を意識した、見込みの解説文を挿入したものだろう。
 カラーA全版「下落合事情明細図」は、従来のモノクロ版ではわからなかった数多くの課題を解消してくれる、豊かな情報に満ち満ちている。

■写真上:神田川がブルーなのも新鮮なら、田島橋が鉄骨構造による架橋であることがはっきりと読み取れる。当時の十三間道路計画は、田島橋を経て高田馬場駅前へと抜けるはずだった。
■写真中:一ノ坂の「シゲモト」宅あたり。畑地と山林、植え込みの記号差もはっきりとわかる。
■写真下:諏訪谷と不動谷からの渓流と道路との差が、色分けでハッキリ区別できる。不動谷側にもあったとみられる、佐伯がクリスマスのときに“活用”した第2の洗い場Click!あたりからも、妙正寺川へ向けて湧水の小川がつづき、この流れは途中で第一文化村の弁天池からの流れに、川村邸の南東域で合流していたのがわかる。モノクロ版では、判然としなかった課題のひとつだ。諏訪谷の洗い場は、南へ数十メートル移動して聖母坂沿いのプールに活用されたが、不動谷の第2の洗い場は一時期、釣り堀として“活用”されていたようだ。