隆慶橋の東詰め、タバコ店「みみずく家」Click!前の喫煙場でタバコをしみじみ吸っていたら、わたしの横にお爺ちゃんが立って一服つけた。するといきなり、「うるさいねえ」と言った。お爺ちゃんを見ると、旧・江戸川(神田川)を覆った高速道路をアゴでしゃくっている。「打(ぶ)ちこわしたくなりますよね」とわたしが答えてから、1時間半の立ち話になってしまった。
 どこか嵐寛(あらかん)に似たお爺ちゃんは、「みみずく家」の並びで産まれて、今年で77歳になるのだそうだ。65歳まで“食いもん屋”をやっていたのだが、客が増えているにもかかわらず、住みにくくなった後楽に見切りをつけ、店を人に貸して引退、いまは同じ文京区の千石へ引っこんだ。旧・江戸川の桜並木や「う」について話を向けると、驚いたことに川沿いにあった店の名前を、ほとんどすべて記憶していた。うなぎ問屋とうなぎ屋の店名を、十数軒もスラスラと挙げられたのには舌を巻いてしまった。いや、そればかりでなく、それぞれの店がなぜ閉店したのか、店主はその後どうしたかまで話してくれた。
 
 そのうち、「ほら、そこの角にね、あった床屋さん。あれね、不動産屋にうまいこと言われてさ、土地を取られちまったんだ、かわいそうだったよ」と、昔から後楽に住んでたご近所相手に話しているような口ぶりになってくる。どうやら、わたしの言葉づかいに気をゆるしたらしく、「そこの、ほれ、ビルの手前。ほら、そこにあった店なんか、建設屋に弁護士がついててさ。なんか、ほら、判決が出てから何週間かして控訴するしないを決めるって、締め切りがあるだろ? そんなもん、弁護士なんて雇えねえから、こっちは知らねえやね」と、わたしには馴染みの東京弁で話してくれる。店の名前や住民たちの様子まで、まるで昨日の出来事のように活きいきと、こと細かに描写してくれるのだ。町で暮らすというのは、こういうことをいうのだろう。ちょうど、わたしが東日本橋Click!や大磯Click!のことを話しはじめると止まらなくなるように、お爺ちゃんも後楽界隈のことをしゃべり出すと止まらない。
 
 この「みみずく家」のある一画は、今年、すべての家が1軒残らず取り壊されてしまう。37階建て(!)のマンションになるのだそうだ。おじいちゃんは、その何度目かの打ち合わせのために、千石からふるさとの町へやってきたらしい。東京都と文京区、それに再開発事業団がいっしょになって話がどんどん進められ、気づいたらお爺ちゃんも土地を提供することになったとか。戦後の競輪場や後楽園球場、はては水戸徳川家上屋敷の水戸光圀の話まで飛び出して、闇市を見たことのないわたしは話についていけなくなった。後楽園を舞台に書かれた、黙阿弥の『黄門記童幼講釈(こうもんきおさなこうしゃく)』、あるいは福地桜痴によって加筆された『俗説美談黄門記』は上演される機会も少なく、わたしは一度も観たことがないのだ。
 ひさしぶりに、「おきゃがれ」という言葉を聞いた。わたしの親父は、すでにつかわなくなっていた言葉だ。祖父の世代なら、まだ間違いなくつかっていたにちがいない、東京弁の下町言葉。「おきゃがれてんだ、もう店なんかできないね」と、お爺ちゃんはしみじみ言った。「じょうだんじゃない」、「ぼやぼやするな」、「ばかやろう」、「マジ?」・・・と、つかわれる話の流れによって、「おきゃがれ」にはさまざまな意味合いやニュアンスが、そのつど込められる。

 町を1区画、丸ごとつぶしての37階建てマンションづくりは、ほんと「おきゃがれ」もんの仕業だ。人々が暮らし、深い交流が生まれる(横に拡げられる)水平の町づくりとは無縁の、もはや巨大なコンクリート構造物のある垂直の空間が、ただそこに拡がるばかり。ビジネスをするオフィスなら、それでもいいかもしれないが、人が暮らしを積み、緊密に交流を重ねられる町や地域が形成できる環境とは、とても思えないのだ。

■写真上:隆慶橋東詰めの「みみずく家」。めずらしい見世構えの、これが見納めだ。
■写真中上:左は、隆慶橋から眺める神田川(旧・江戸川)。右は、「みみずく家」の並び。
■写真中下:左は、黙阿弥作『黄門記童幼講釈』の戦前と思われるブロマイド。徳川光圀は7代目・松本幸四郎で、藤井紋太夫は6代目・尾上菊五郎らしい。右は、水戸徳川家上屋敷の庭園(後楽園)にかかる円月橋で、光圀が儒学者・朱舜水の意見を参考に設計した庭園だ。
■写真下:幕末に撮影された、飯田橋交差点あたりのめずらしい写真。手前が江戸川の出口にかかる舩河原橋で、奧が隆慶橋。対岸の家並みは、江戸期も現在も変わらず下宮比町(しもみやびちょう)。遠方に、大曲(おおまがり)先の小日向(こびなた)のバッケ(崖線)がうっすらと見える。