目白文化村では、従来の日本の住まいでは考えられなかったことが、次々と実現していった。住宅のデザインや間取り、内装などの設計を女性が主導した例も、おそらく大正期の東京では初めての試みだったのだろう。家の中に女性しか住まなかった、たとえばアビラ村の吉屋信子邸Click!のようなケースは例外としても、ふつうの家族が住む一般住宅を女性が手がけるというのは、明治以降、それまでの男性主導の“家づくり”とは、まったく異なる考え方であり現象だった。
 今日では、家の意匠や設計を女性が決定するというのは、まったくめずらしくもなんともないけれど、もっとも家で長くすごす可能性のある人間が、いちばん使いやすい仕様や設計で家を建てる・・・というコンセプトは、目白文化村の邸宅がその“はしり”のような存在だったろう。さまざまなしゃれたデザインの邸宅群には、その意思決定に多くの女性たちが参画していた。
 第一文化村に家を建てた早稲田大学のS教授は、総建坪40坪の家づくりすべてを妹のY子さんにまかせた。Y子さんは多趣味で、さまざまな分野に造詣が深かったらしい。家のデザインから間取りなどをすべて決め、ひょっとすると図面も自分で引いたかもしれない。あるいは、箱根土地の設計部の技師と相談しながら、納得のいく設計図を完成させたのかもしれない。内装も、造りつけの家具類をはじめ、調度品や壁紙にいたるまで、Y子さんがすべてコーディネートしている。こうして、100坪ほどの敷地に、めずらしいデザインのかわいらしい洋館が誕生した。
 
 室内を拝見すると、できるだけ意味のない装飾やムダなスペースを省いた、とても合理的かつシンプルに造られているのがわかる。室内に本棚をめぐらすと、部屋の空間が狭くなるので、廊下の片側に天井までとどく造りつけの書棚を設置してしまった。現在では、よく見かけるスペースの有効活用だけれど、当時は本棚が書斎にないなど、そもそも論外のことだったにちがいない。本を探しに、いちいち書斎を出て廊下をウロウロしなければならないことを知ったS教授は、「うそっ、マジですか?」と言ったかどうかわからないが、Y子さんはかまわずに設計をつづけた。
 
 ふだんからあまり使わない生活用品を収納する、タンスや物入れにはクロスをかけて見えなくし、サイドテーブルやイス代わりに活用している。また、変わっているのは、S教授は仕事がら学会などの出張が多かったのだろう、大きなトランクをいくつも持っていた。Y子さんは、「これジャマ!」と思ったのかどうかわからないけれど、トランクをいくつか並べてやはりクロスをかけ、おしゃれな長イスにしてしまった。しかも、季節によっては不用になる用品を入れておく、生活中心の実用的なソファだった。やはり、女性の発想は当時もいまも、収納をいかに効率的に行うか・・・なのかもしれない。
 応接室は、他の文化村の邸宅に見られるような豪華なものではなく、いたって機能的で実用的だ。長大なフカフカの豪華ソファもなければ、大理石やムク材のテーブルもない。シンプルなデザインのイスと、小さめのテーブルが置かれているだけ。まるで、いまの街角にあるカフェのような趣きなのが、かえってしゃれて見える。S教授の書斎も、Y子さんの化粧室や居室もまったく同様で、ゴテゴテと飾らない洗練されたインテリアデザインで統一されている。
 
 もうひとつめずらしいのは、おそらく欧米からわざわざ輸入したのだろう、各部屋に多彩な模様の壁紙を採用している点だ。最先端をいく当時の目白文化村といえども、壁紙をこれほど積極的かつふんだんに取り入れている邸宅は、いまだ少なかっただろう。しかも、全室同じではなく、部屋の用途や雰囲気に合わせて、各室のデザインをすべて変えているのだ。当時の富豪や華族の大邸宅ならともかく、また今日ではまったくめずらしくない光景なのだけれど、大正期の一般住宅ではきっと画期的なことだったにちがいない。
 そういう意味では、S邸の設計を全面的にまかされたY子さんの感性や視点は、時代を大きくリードしていたといえそうだ。

■写真上:1924年(大正13)に撮影された、第一文化村に建つしゃれたS邸。
■写真中上:左は、廊下に設置された天井までの本棚。右は、S教授の書斎。
■写真中下:左は、シンプルな造りの応接室。右は、Y子さんの化粧室兼居室。
■写真下:左は、大型トランクを活用した長イス。右は、現在のS邸跡。