戸塚(早稲田)から落合、大久保にかけ、神田川流域に展開する「百八塚」Click!の伝説に刺激されて、なぜかまったく関係のない鎌倉の「百八やぐら」が見たくなったので出かけてきた。「百八塚」は、明らかに古墳時代あるいはそれ以前の遺跡だと思われるけれど、「百八やぐら」はおもに鎌倉時代に、この地に住んだ武士たちの墓所だ。双方とも「百八」と呼ばれているが、ともに「無数」にある、または「数え切れない」塚あるいは“やぐら”(横穴)という意味になる。
 「百八やぐら」は、頼朝のシンプルな墓所にほど近い、覚園寺の裏山全域に展開している。子供のころ、親とともに裏山へ入りこんで、山道を外れた斜面を探検しながら、それまで見たことのない“やぐら”を発見しては写真に撮ったものだ。建長寺の半僧坊からはじまり、十王岩をへて六国峠(りっこくとうげ)へと抜けるハイキングコースが尾根を走る、この裏山の斜面は当時、まだ立入禁止になっていなかった。道のない、樹木や下草が生い繁る斜面をかき分けていくと、やわらかな岩盤に横穴をうがった“やぐら”が、文字通りあちこちから無数に出現した。108穴どころではない、山全体が鎌倉武士団の墓域なのだ。
 
 やぐらの内部には、苔むして朽ちかけた五輪塔や宝筐印塔がいくつも並び、横穴の深度が浅いせいか、風雨にさらされているものは崩れ落ちている。大きくて深い穴は、大家のものなのだろう、10基以上の五輪塔を数えることができた。やぐらの口から、無数の眼差しがこちらを凝視しているような感覚にとらわれたのを、子供心にも憶えている。わたしは、密林からいきなり横穴群が出現するこの山が大好きだったので、不思議に怖いとは思わず、「百八やぐら」の死者たちのまんまん中で、鎌倉に深く馴染んでいった。
 「百八やぐら」への入山が禁止されたのは、わたしが中学生のころだろうか。同様に、釈迦堂ヶ谷(しゃかどうがやつ)切通しの通行も禁止されたような記憶がある。脆い岩が崩れそうで危ないのと、やぐらは風紀上の問題があったように思う。多くのやぐらが造られてから、すでに800年の時間が経過している。大雨のあとなど天井が落ちそうになり、戦時中に防空壕にされてしまったやぐらは、深く掘られているので特に危険だった。そんなやぐらへ、“鎌倉ブーム”に乗ってか多くのカップルが入りこんだらしい。そんなことがあって以来、「百八やぐら」への入山は許可されていない。
 
 久しぶりに十王岩から、覚園寺下へと向かう“正規”のルートを歩いたのだけれど、「百八やぐら」の風情はほとんど変わっていなかった。つい、道のない斜面に入りたくなるが、グッと抑えて思いとどまる。この時期、鎌倉の山々ではマムシが活発に活動していて危険だ。鎌倉らしい谷(やつ)に食いこんだ田んぼが減り、住宅がつい山の下まで押し寄せてきたので、昔ほどにはいないだろう。でも、鎌倉ではいまだマムシは要注意だ。わたしが、ヘビの種類を瞬時に見分けられるようになったのは、この「百八やぐら」をはじめ、子供のころ鎌倉の山々へ入りこんでいたおかげだ。特にマムシの出現は、姿を見せる前に笹や草が不自然に細かく震えるので、早めに察知できる。他のヘビの場合は“歩行”のクセからか、そのような現象はみられない。
 
 わたしが神田川流域の「百八塚」に惹かれるのは、根っこの部分に鎌倉の「百八やぐら」探検の記憶があるからだろうか? 片や、多くの副葬品をともなう、1500年以上も前の巨大な古墳群だが、一方は山に小さくうがたれた、まるで高度経済成長時代の郊外団地のような、見方によってはどこかすごくいじましい鎌倉武士団の墓所だ。「死者は語らない」というけれど、わたしの感覚からすれば、死者はとても雄弁かつ饒舌だ。けんめいに生きた証しを、さまざまなメッセージを後世に残そうとして、しきりに耳もとへ囁きかけてくる。これは、鎌倉でも下落合でも、まったく同じだ。

■写真上:「百八やぐら」のひとつ。五輪塔が崩れずに、比較的きれいに残っている。
■写真下:すべて鎌倉武士の墓である「百八やぐら」。下右は、十王岩から鎌倉市街を眺める。