明治末から大正期にかけて、洋画界と日本画界ともに人気ダントツのモデルがいた。身長が五尺三寸(約160cm強)と記録されているから、今日から見ればむしろ背がそれほど高くない普通のタッパの女性だけれど、明治末の当時としては、すらりとしてグラマラスな肢体に映ったらしい。名前は岡田みどり、美術学校へも頻繁に出入りする人気モデルだった。でも、彼女は本職のモデルではなく、あくまでも“アルバイト”としてモデルをしていたようだ。
 彼女の生まれ育ちや年齢については、はっきりしたことがわからない。いや、噂や風説はすごく多いけれど、「みどりさん」の生涯は謎だらけだ。確かなことは、1910年(明治43)現在、新宿駅の近くに家があって暮らしていたということだけだ。そして、付近に住んでいた彫刻家から、この年の新年早々にモデルを頼まれている。「みどりさん」ご指名の彫刻家とは、同年の4月に新宿中村屋で急死することになる荻原守衛(碌山)Click!だ。1924年(大正13)に「若きモデル女のローマンス」を特集した『主婦之友』11月号には、荻原碌山が岡田みどりに恋してたことになっているけれど、いくらか読みもの風な記事とはいえ、相馬良(黒光)Click!が健在で記憶もいまだ生々しい時期のせいか、美術記者もあまり突っこんだ書き方はしていない。
 
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 みどりさん! 画を知る人でみどりを知らない人はいないでせう。あの五尺三寸の珍らしく高い脊、蕾が破れようとするやうな匂やかな肉体、みどりほど画家をやんやといはせたものは、まあないでせう。その頃(明治四十三年)彼女は新宿に住んでゐました。当時その近くに、天才彫刻家荻原守衛氏も住んでゐました。
 守衛氏の家は義侠パン屋で通つてゐる、中村屋の裏で、その後この家には先年日本政府から追はれたロシヤ詩人、エロシェンコ氏が住んだといふ、由緒のついた家であります。荻原氏はこのみどりを特別に贔屓にして、日毎彼女を呼んではモデル台に立たせ、その製作に熱中してゐました。また彼の製作にはみどりが、そのまゝ生きてゐるといひます。こゝに挿入いたしましたあの当時すべての人の血をわかした、そして荻原氏の最後の傑作『女』なども、その一つであります。不幸にしてこの天才彫刻家は、若くして倒れましたが、その遺言に、彼が使用してゐた寝具をはじめ、何もかも彼女に与へると、いつたことを聞いたゞけでも、いかにみどりを愛してゐたかゞわかります。
                                                     (同誌「天才彫刻家の恋」より)
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 荻原守衛の『女』のモデルをつとめた仕事は、「不自然なポーズをとりつづけてつらかった」という、当時のみどりの証言が残っている。
 
 碌山が急死したあと、みどりは帝展審査員であり東京美術学校教授でもあった日本画家・松岡映丘のモデルをつとめ、頻繁に美術学校へ出入りするようになる。ところが、松岡があまりにもみどりにのめりこみすぎたのか、ふたりの仲が校内じゅうのウワサにのぼるようになってしまった。学校側では事態を重く見て、松岡教授を「たぶらかした」と考えたのか、あるいは学生へのしめしがつかないと判断したのか、みどりの出入りをすぐに禁止してしまう。貴重なモデルが出入り禁止になるなど、おそらく美術学校でも稀有のことだったろう。当時は、ヌードも辞さず絵のモデルになってくれる女性など、それほど多くはなかった。しかも、岡田みどりは一級のモデルだったのだ。
 みどりは、この事件がかなりこたえたらしく、しばらくは悶々としていたようだ。そして、日本画家・竹内栖鳳からのモデル依頼を引き受け、思い切って東京を離れることにした。この時期、竹内栖鳳は京都の東本願寺からの依頼で、山門の天井画に天女を描こうとしていた。のびのびとした肢体で自由に天界を舞う天女像は、みどりのイメージそのものだったのだろう。そのとき、竹内がみどりをモデルにデッサンしたとみられる、素描の『天女』像が残っている。みどりはそのまま数年間の京都生活をつづけ、1913年(大正2)には竹内の代表作となる『絵になる最初』のモデルもつとめている。この作品は、同年の第7回文展に出品されて多くの注目を集めた。
 
 やがて、京都の水が合わなかったのか、みどりは身体をこわして東京にもどる決心をする。竹内栖鳳の仕事は遅々として進まず、東本願寺の天井画は未完成のままだった。あるいは、お気に入りのモデル「みどりさん」に、できるだけ長く京都にいてもらいたいため、竹内は意図的に筆の進みを抑えていたものだろうか。彼女は、東京に着いてからわずか2日後に急死してしまう。この死亡年月日がはたしていつなのか、記録が見つからないのでわからない。おそらく、評判になった『絵になる最初』が文展に出品された、1913年(大正2)の秋までは生きていたと思われる。
 岡田みどりの死に際して、多くの見舞金が寄せられているところをみると、いまだ画家たちの人気は衰えていなかったようだ。特に、死の直前までモデルをつとめていた竹内栖鳳からは、多大な見舞金がとどけられて話題を呼んでいる。そして、死の床のみどりの指には、東本願寺の句佛(くぶつ)法主から贈られたダイヤモンドの指輪が光っていた。
 「みどりさん」は画壇ばかりでなく、なにかと当時のマスコミを騒がせる注目のトップモデルだった。彼女の記録はきわめて少ないが、画家への営業用あるいはオーディション用のポートレートなどが残っていたら、ぜひ見てみたいものだ。
★岡田みどりは、1911年(明治44)11月に東京で死去していることが、arikoさんからのご指摘で判明した。したがって、『絵になる最初』など同年以降の作品は岡田みどりがモデルではないことになる。詳細は、コメント欄のarikoさんの記事を参照。

■写真上:1913年(大正2)に描かれた竹内栖鳳『絵になる最初』(部分)で、モデルは岡田みどり。
■写真中上:左は、1910年(明治43)に完成した『女』と荻原守衛。右は、国立近代美術館に収蔵されている『女』。直接のモデルはみどりだが、相馬黒光の面影が投影されているといわれる。
■写真中下:左は、みどりとの関係で美術学校当局からニラまれた松岡映丘。右は、1917年(大正6)に描かれた『薄野』(「春夏秋冬」より)。馬上の女性は、みどりのイメージなのだろうか。
■写真下:左は、みどりをことのほか気に入った竹内栖鳳。みどりが急死したとき、多額の見舞金がゴシップ欄のウワサになった。右は、1910年ごろに描かれたといわれる『天女』のデッサン。