昭和期に再刊された『女人藝術』を読んでいると、ところどころに遊びの“コラム”のようなスペースがある。そこには毎号、思わず噴き出してしまうような記事が掲載されている。大正デモクラシーの残り香が濃い、昭和初期の『女人藝術』では、編集者や参加者がよってたかって言いたい放題をしている闊達さが感じられ、読んでいてとても楽しい。
 たとえば、作家を動物にたとえると?・・・というような企画があって、もう有名作家たちは軒並み言われ放題となっている。1929年(昭和4)に発行された、『女人藝術』2月号から引用してみよう。たとえば、「文壇動物園(女人入園無料)」では、こんな感じなのだ。
●文壇動物園

 こんなふざけたコラムが、あさの・あさの書いた力作「ローザ・ルクセンブルグの手紙を見て」の、見開き記事の隣りに掲載されていたりする。ところが、これが女性作家となると動物ではなく、いきなり「植物園」となって、あまり当たり障りのない内容となっている。やはり男とは異なり、同性にはかなり気をつかっているようだ。
 女性作家には、美しい花の名前が並んでいるのだけれど、でも中には「神近市子=うまごやし」とか、「今井邦子=ぼけ」、「伊福部敬子=しやぼてん」、「吉屋信子=へちま」、「八木さわ子=すゝき」、「市川房枝=大根」、「金子しげり=馬れい薯」なんていうのもある。どうやら、編集部とも親しく怒られそうもない人には、それなりの植物を当てはめて舌を出しているようだ。ちなみに、長谷川時雨Click!は、ちゃっかり「蘭」なんてことになっている。
    
 わたしがいちばん面白かったのは、1928年(昭和3)に発行された『女人藝術』8月号(創刊第2号)に掲載されている、有名作家の「文壇商売見立」だ。武者小路実篤Click!が、新しき村の芝居で「ダルマ」に扮し、机の上から転げ落ちて会場の笑いものになった・・・という、起き上がりこぼし実篤記事の隣りに載っている大きな一覧表。作家たちが、いまの職業をやめるとすれば、どのような仕事が似合っているのか?・・・という発想がおかしい。この企画は性別に関係なく、当時の人気作家や流行作家が網羅されている。たとえば、こんな具合だ。
●文壇商売見立

 中でも気に入ったのが、吉屋信子Click!の“電話交換手”と林芙美子Click!の“おでん屋”で、もうピッタリなのだ。ちなみに、長谷川時雨はといえば「踊の師匠」と、ここでもずいぶんいい職業になっている。やっぱり、ボスの機嫌はとっておかないと怖いのだ。『女人藝術』編集部に集った作家と編集者とで、お茶におやつでも食べながら、ああでもないこうでもないと大笑いしながら品定めしていったのだろう。そんな光景が、目に浮かぶようだ。1928年(昭和3)の7月号には「文壇人気番付」と「文壇新人番付」、1929年(昭和4)の3月号には「珍劇・忠臣蔵見立」なんてのもあるけれど、これらはマトモすぎてあまり面白くない。
    

 こんなにのびのびとした、言いたい放題の記事を書けていた時代は、そう長くはつづかなかった。ほどなく、戦争のキナ臭い匂いが漂いはじめ、『女人藝術』の執筆者の多くは警察へ「ちよいと来ひ」と、次々と引っぱられ検挙されていくようになる。1931年(昭和6)には発禁処分を受け、翌年には「時雨の病気」と「資金難」という理由から、6月号を最後に廃刊へと追いこまれている。
 『女人藝術』に集った女性作家たちが、好きなことを思うぞんぶん自由に表現できたのは、わずか4年、ほんのつかの間のことだった。

■写真上:左は、『女人藝術』の編集部があった市ヶ谷の左内坂を上から。右は、歌舞伎界で史上初の女性脚本家となった、長谷川時雨のめずらしいブロマイド絵はがき。
■写真中:『女人藝術』の表紙デザイン。左から順に、1928年(昭和3)7月の創刊号、1929年(昭和4)5月号、1930年(昭和5)5月号、1931年(昭和6)6月号、1932年(昭和7)6月号。掲載内容の先鋭化とともに、表紙のデザインも大きく変貌していく。
■写真下:『女人藝術』の執筆者たち。上の左から、上田文子(円地文子)、窪川いね子(佐多稲子)、若林つや子、望月百合子、平林英子。下は、1932年(昭和7)1月号の座談会。左から、奧むめお、帯刀貞代、神近市子、宮崎白蓮、岡本かの子、長谷川時雨、平林たい子、村岡花子。