下町には、面白い伝承がたくさん眠っている。家の周囲にイチョウの木を植えると、火事の延焼を防げるというのもそのひとつだ。おそらく、江戸東京を通じての伝承なのだろう。別に単なる迷信ではなく、これには物理的な現象とともに語られることが多い。関東大震災Click!でも、また東京大空襲Click!でも目撃者がいるようなので、あながち荒唐無稽な伝説とはいえないようだ。
 江戸は火事が頻発した街だったが、火炎がイチョウの木に迫ると、太い幹や枝から水を噴き出して枝葉へ火が燃え移るのを阻止するといわれてきた。にわかには信じられない現象だけれど、どうやら事実らしいのだ。関東大震災のとき、浅草寺の境内に生えていた何本かの大イチョウが、火事の炎で枝葉がまさに焼かれようとしたとき、いっせいに噴水のように水を散布して延焼を防いだという伝説が残っている。実際に浅草へ避難した人々の目撃談が残るが、そのおかげで焼死をまぬがれたと証言する人さえいる。
 東京大空襲でも、同様のことが起きているようだ。1945年(昭和20)3月10日、御茶ノ水の湯島聖堂(昌平坂学問所)に焼夷弾が落ちて大成殿が炎上したとき、東側の神農廟に接して植えられた大イチョウの木々に火が燃え移った。ところが、炎が幹を包まないうちに、イチョウの木が「自己消火」を始めたというのだ。ナパーム焼夷弾は、着弾と同時に瞬時に燃えあがるので、さすがのイチョウも面食らって初期消火はできなかったようだ。急に枝葉が燃えあがったので、イチョウも一瞬わけがわからなかったのだろう。幹まで火が移ったあと、ようやく気づいて“消火作業”をはじめたらしい。
 
 
 現在でも、「自己消火」をした 大イチョウたちを、湯島聖堂の境内で見ることができる。間近でよく見ると、いまだ幹のあちこちに黒焦げの痕跡が残っているのがわかる。樹木はどんどん成長するので、焦げ跡は年々高い位置に移動していく。焼夷弾で全焼したイチョウはなく、延焼は途中でとまっている。おそらく、イチョウたちは大急ぎで“消火モード”を機能させたのだろう。神田川から聖橋沿い、湯島聖堂のまわりに植えられている街路樹が、スズカケではなくイチョウなのも、なんとなく意味ありげに思えてくる。
 東京都のシンボルマークが、いつの間にかイチョウの葉になった。ついこの間、決められたような気がするのだけれど、関東大震災や東京大空襲のイチョウ伝説を意識して採用されたのかどうかまでは知らない。確かに、都内にはイチョウの大樹が多い。いや、イチョウに限らず、家屋敷の周囲に武蔵野の広葉樹林を残したり、あるいは植えたりするケースは多い。おそらく、火事が多かった江戸期からの経験やノウハウが、どこかにベースとして残っているのかもしれない。針葉樹林は、生木のままでもたやすく燃え拡がるが、広葉樹林は炎を喰いとめる。関東大震災では、樹木がほとんどなかった本所の被服廠跡地では3万8千人が焼死したが、樹林に囲まれた深川の清澄公園には炎が入らず、2万人の避難者が助かった話は有名だ。

 阪神大震災の教訓でも、杉や松などの針葉樹は延焼を助長するが、広葉樹(特に常緑樹)は火災を喰いとめたことが知られている。おそらく、針葉樹の樹脂がよく燃えるのだろう。戦後すぐに撮られた空中写真(1947年)で、下落合Click!の焼け跡を細かく観察すると、明らかに樹木の粗密によって燃え拡がり方が異なっていたのがわかる。森のような密度が濃い樹林でなくても、まばらな屋敷林が植えられていた境界でさえ、火災の延焼はかなりの確率で止まっているのがわかる。
 現在の下落合でも、大切に保存されているイチョウの大樹をあちこちで見かける。これから秋が深まるにつれ、毎日の落ち葉掃きがとても悩ましいのだけれど(うちは毎年、ケヤキの落ち葉掃きで腰を痛めるのだが)、どこかで江戸東京のイチョウ伝説が語り継がれてきたからこそ、この街でも大切にされているのかもしれない。

■写真上:「自己消火」したらしい湯島聖堂の大イチョウ。大成殿の東側、神農廟との間にいまも葉を繁らせていて、11月に行われる神農祭のときだけ樹下から見あげることができる。
■写真中:左上から右下へ、勝海舟が愛した赤坂氷川明神の境内にある大イチョウ、神田川は関口の水神社(すいじんしゃ)の脇にそびえる大イチョウ、鎌倉鶴岡八幡宮のきざはし左手に健在な樹齢千年を超える大イチョウ、そして、下落合は旧・メーヤー館前の大イチョウ。
■写真下:1947年(昭和22)に撮影された下落合。この空中写真は、爆撃効果を測定するためにB29から撮られたものだが、樹林が延焼を食いとめているのを米軍もはっきり認識しただろう。