市谷加賀町の一画に、戦災にも焼けずに古い建物が残っているのを、以前にこちらでもご紹介Click!したことがあった。和館と洋館がともに残るエリアなのだが、その中で幕府の御殿医をつとめたといわれる、長屋門造りの屋敷の平面図が、新宿区教育委員会が編纂した資料に掲載されていることがわかった。
 平面図といっても、長屋門から玄関口あたりにかけての部分的なものだけれど、いまや乃手にあった江戸の屋敷が、これほどきれいなかたちで残っている例は、東京じゅうを見わたしても数少ない。市ヶ谷は、下落合と同様に住宅街には屋敷林Click!が多く、延焼がくいとめられて古い建物がかろうじて島状に残った。ちなみに、この御殿医屋敷の斜向かいに大きな西洋館が建っているが、こちらは明治以降の西洋医だったのがおもしろい。新宿区教育委員会が1983年(昭和58)に発行した『新宿区の文化財(7) 建築』から、長屋門屋敷の解説と平面図を引用させていただこう。
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 規模は桁行六間、梁間二間、一部二階建、東側一間下屋付。屋根は寄棟造、瓦葺で、正面のみ出桁造(せがい造)にしている。正面入口上部の欄間格子、さらに東側一・五間の鍵の手に設けた武者窓の構えは武家屋敷の外観を思わせる。/入口はガラス戸引違に改造されてはいるが、その内側に開戸が現存し、東隣りの潜りと共に旧態をよく保存している。また内部は正面に一間の窓格子西面に式台付玄関を構えて舞良戸(横桟の繁く入った戸)を建込み、周囲を腰板張りにした様子は、簡素ではあるが格式の高さをただよわせている。
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 もうひとつ、この家には中国革命の父といわれる孫文が日本に亡命したとき、一時期隠れ住んでいたという伝承が残っている。当時、孫文は「中山樵(しょう)」という偽名を使い、東京とその周辺の街を転々としていた。市ヶ谷からほど近い、神楽坂の筑土八幡の界隈にも、孫文が隠れ住んだ伝承の残るお宅がある。孫文は何度か日本へ亡命しているが、市ヶ谷の長屋門屋敷に潜伏したのは、袁世凱に追われた1913~16年(大正2~5)ごろのことだろうか?
 中国革命を支援していた近衛篤麿Click!や犬養毅たちは、1898年(明治31)に東亜同文会Click!を設立する。やがて同会は、上海の虹橋路に東亜同文書院Click!を、東京の下落合に東京同文書院Click!を設立して、積極的な日中留学生の交換を行っている。当然、亡命中の孫文にも、手厚い支援の手を差しのべていた。東亜同文会のメンバー、あるいは篤麿の長男である近衛文麿も、ひょっとするとこの長屋門屋敷の孫文を、差し入れ支援をかねて訪ねていたかもしれない。

 日中戦争が激化した時期、最後の和平のカギをにぎっていたとさえ言われている上海の東亜同文書院だが、愛知大学に保存されている貴重な資料類の展示会Click!が、10月27日(土)~29日(月)に東京の霞山会館新ビル(霞ヶ関)で開かれる。近衛文麿Click!が日中和平工作の最後の足がかりとして、長男の文隆を派遣したのも上海の東亜同文書院だった。

■写真上:市谷加賀町に残る、幕府御殿医の長屋門屋敷。
■写真中:左は、長屋門屋敷の西寄りの2階部分。右は、日本での潜伏名「中山樵」こと孫文。
■写真下:愛知大学の東亜同文書院大学記念センターよりお送りいただいた、「東亜同文書院大学の資料展示会」パンフレット。当時の中国大陸の情況や、近衛篤麿をめぐる講演会なども期間中に予定されている。パンフレットの詳細は、目白駅近くの三春堂さんにて入手可能。