和菓子の中では、虎屋の羊羹Click!と並んで桜餅が好きだ。子供のころ、和菓子といえば桜餅に柏餅、たまには大福が好物だった。その中でも、桜餅の印象が強いのは、親父に連れられてわざわざ食べに向島まで出かけたからだろう。長命寺の桜餅は、わたしの味覚のデフォルトとなったはずなのだけれど、そのときの記憶がはっきりしない。
 長命寺の記憶が薄いのは、わたしが幼かったせいばかりでもなさそうだ。子供のころ、おそらく向島界隈は色町の風情をいまだ色濃く残していただろうから、親父は教育上よろしくないと考えたものか、わたしに桜餅を食わせると、ゆっくり向島(特に寺島界隈)を散策することなく、さっさと大川橋(吾妻橋)までもどったのではないだろうか。そういえば、浅草の北側から川向こうの濹東(向島)にかけて、わたしの記憶はきわめて曖昧だ。浅草の北側は、もちろん八丁土手(日本堤)から新吉原があった界隈なので、子供のわたしを連れ歩くのに躊躇したのだろう。当時は、現在と比べたら、まだまだよっぽど色っぽい街並みだったろうと想像している。わたしを連れて出かける限界は、せいぜい“健全”な柳橋芸者Click!のいるお座敷までだったようだ。
 そんなかすれがちな記憶をたぐり寄せるように、長命寺の桜餅を食べに出かけた。それが、とんだ大失敗。さっそく運ばれた桜餅を、「子供のころの味と、違ってるかどうかさえわかりゃしない」とパクついて茶を飲んだとたん、ハタと写真を撮り忘れたことに気づいた。ということで、もぬけのからの桜餅画像で失礼します。(汗) おかわりを頼もうかとも思ったけれど、このあと言問団子もお腹に入れる予定だったので、胃を壊しそうだからやめにしといた。
 長命寺という寺名は、とても縁起がいいけれど、これが江戸期から不幸つづきの寺なのだ。まず、安政の大地震でほとんどの伽藍を焼失し、その後、某旗本の屋敷を移築して仮本堂としたのだが、明治の廃仏毀釈で本堂再建の認可が下りないまま、今度は関東大震災Click!で旧旗本屋敷を全焼し、またまた仮本堂を建てたら今度は空襲ですべてが廃塵に帰して・・・と、もう踏んだり蹴ったりの災難つづきの寺だった。それでも廃寺とはならず、延々といまにつづいているところに、長命寺の本領があるのかもしれない。江戸期以来、ようやくまともな本堂や庫裡が再建されたのは、1963年(昭和38)になってからのことだ。
 
 長命寺の桜餅といえば、河竹黙阿弥の書いた芝居『都鳥廓白浪(みやこどり・ながれのしらなみ)』(通称「桜餅」)がある。長命寺の門前で、主役の惣太が桜餅屋を開いているという設定だ。黙阿弥お得意の、複雑で入り組んだ筋立てだけれど、廓(くるわ)から遊女を身請けしようと、長命寺土手を通りかかった遣いの稚児から百両奪い、殺してしまうというストーリー。因果はめぐりめぐって、結局は惣太も殺されてしまうのだが・・・。この芝居、説明するととんでもなく長いからこのへんで。
 現在、長命寺近くにある桜餅の屋号は案外知られていないが、桜餅が発明されてからかなりたった後世、文政年間に創業した「山本屋」だ。桜餅の創案者といわれる、山本新六からきているのだろう。いまも昔も、わたしが食べていたのは山本屋の桜餅。桜餅の歴史は、墨田堤に吉宗が桜並木を植えた、享保年間にさかのぼるといわれている。おそらく、当初植えられたのは伊豆のオオシマザクラだったのだろう。長命寺の門前で、墓参客に線香と柏餅を売っていた門番が、柏の代わりに塩漬けした桜の葉を巻いて売り出したところ、江戸じゅうで大ヒット。伊豆産の香りのよいオオシマザクラの桜葉樽とともに、またたくまに全国へ普及していったらしい。
 山本屋が創業したてのころの1825年(文政8)に、滝沢馬琴の『兎園小説』が出版されているが、この中に前年売られた桜餅の統計調査が記録されている。それによれば、長命寺だけでなんと377,501個、使用した塩漬けの桜葉は31樽=775,000枚という膨大な量だった。桜餅の数と葉の枚数が合わないのは、長命寺は1個の桜餅を複数枚の葉でくるむからだ。
 
 山本屋がいまだ木造2階建てで、現在の場所とは異なり長命寺の門前近くにあったころ、その2階には大学受験のために正岡子規Click!が下宿していたことも知られている。もちろん、わたしは木造2階建て時代の山本屋を知らない。

■写真上:うっかり食べ終えてしまった、長命寺名物の元祖桜餅。
■写真中:左は、土手沿いにある現在の桜餅・山本屋。右は、1950年(昭和25)ごろの同店。
■写真下:左は、1856年(安政3)作成の尾張屋清七版の切絵図「隅田川向島絵図」より。「名物サクラモチ」の記載が見えるが、ちょうどこの前年に安政の大地震で長命寺は炎上している。右は、黙阿弥作の『都鳥廓白浪』(桜餅)の稚児殺しのシーン。惣太役は、七代目・大谷友右衛門。