西坂上の徳川邸にあった、ボタンで有名だった東京名所の「静観園」Click!については、このサイトでも何度か取り上げている。同じ西坂の道路筋、「八島さんの前通り」Click!沿いの第三文化村Click!に住んでいた、洋画家・吉田博Click!が描く『落合徳川ぼたん園』(1928年・昭和3)も、先日こちらでご紹介した。でも、松下春雄が描いたこの徳川邸の庭は、700~800本ものボタンが咲き乱れる「静観園」の和式庭園ではない。
 庭の風情から、おそらくモッコウバラが満開の5月ごろに描かれたとみられる、洋式の広い庭園だ。バラの蔦をはわせたらしい、さまざまなかたちをしたローズアーチが面白い。やはりこの作品にも、松下の“お約束”である少女たちがベンチの上に、あるいはアーチの下に見えている。ボタンの和式庭園「静観園」のほうは誰でも入園でき、近くの落合小学校ではスケッチの時間になると、先生に引率された生徒たちが同園を訪れていた。また、ボタンの季節になると、徳川邸では東京じゅうから集まる見物客へお茶をふるまっていた。
 
 ここに描かれた洋式の庭園は、徳川邸のプライベートな庭なのだろうか。そうだとすれば、松下は徳川家と親しかったことになる。描かれたテーブルにはポットとカップ、それに茶菓の載ったらしい小さな皿が見える。あるいは、「静観園」のボタンが見ごろになるころ、同時に洋式の庭園のほうも来訪者に公開していたのだろうか?
 さて、この庭は徳川邸のどのあたりだろう。上の作品は、1926年(大正15)に描かれた『下落合徳川男爵別邸』、下の作品は同年の『徳川別邸内』。おそらく、この2作品はバラが咲いている同時期に制作されたものだろう。絵をよく観察すると、『徳川別邸内』(下)の遠景には隣家と思われる屋根と、崖面の崩落を防ぐために築かれたらしい防護壁のようなものが描かれているのがわかる。そして、『徳川別邸内』(下)に描かれた少女髪の稚児輪(ちごわ)のようなアーチが、『下落合徳川男爵別邸』(上)の画面左隅に見てとれる。
 つまり、『下落合徳川男爵別邸』(上)の少女たちが腰かけたベンチ横の四角いアーチをくぐり、左手のほうへ歩いていくと、『徳川別邸内』(下)の稚児輪アーチが出現する・・・という庭園内の配置だったと思われる。そして、稚児輪アーチの向う側には切り立った崖線と、おそらく谷間を隔てた隣家の屋根が見えている・・・という構図だろう。光線の具合から、おそらく両作品とも東を向いて描かれているのではないか。右手を南と考えても、特に不自然さは感じない。隣家と隔たった谷間とは、のちに補助45号線Click!が貫通することになる聖母坂の谷ではないだろうか。
 
 1936年(昭和11)の空中写真を観察してみると、徳川邸の母屋の南側に、それらしい庭園のスペースが見てとれる。また、1947年(昭和22)の米軍写真を見るとよりハッキリするが、バラ園の一画には新邸が建ち、残念ながら庭園は見えず、戦時中からすでに存在しなかったらしい。・・・・・・と、いろいろ想像していてもラチが開かないし、徳川様ご自身へお訊きしたほうが確実で早いということで、さっそくお訪ねしてきた。うちは代々、三つ葉葵の御紋にはとても弱いのだけれど、そこはご近所ということで・・・。(^^;
 徳川様のお話によれば、この庭園は邸の南側、広い芝生の庭が拡がる東寄りのエリアにあったバラ園とのこと。そして、庭園の移動についても貴重なお話をうかがった。大正期から昭和初期のボタンの庭「静観園」は、もともと車寄せのあった邸の北側から東側の斜面にかけ、つまり西坂側からのちに聖母坂が通う谷間にかけて、東西を貫くように存在したのだが、後年に邸をリニューアルされる際、「静観園」は聖母坂のある東側の斜面一帯へとすべて移動されている。だから、「静観園」をめぐり徳川邸の北側にあったという地元の伝承と、邸の東側つまり聖母坂に沿った斜面にあったと記憶されている方との間で、証言に微妙な齟齬が生じているのだ。
 建てかえられた邸自体も、大正期の位置からちょうど邸1棟ぶんほど、南側へ少し移動している。この「静観園」を北側から東側へと移動する際に、多くの貴重なボタンが“紛失”し、行方不明となっていることも苦笑されながら話してくださった。きっと、造成や移植のドサクサにまぎれて、ボタンの苗木を失敬した悪いヤツがいたのだろう。
 
 『落合徳川ぼたん園』を描いた吉田博と、いまの徳川様の祖母にあたられる男爵夫人とは、交流があったというお話もうかがった。ひょっとすると、松下春雄も徳川邸と交流があったものか。だからこそ、邸内の奥まったバラ園まで立ち入って、スケッチができたのかもしれない。ただ現在の徳川様は、松下春雄が描いたバラ園の作品をご存じなかった。
 お休みにもかかわらず、わざわざ外へ出られてごていねいに説明くださり、ほんとうにありがとうございました。>徳川様

■写真上:1926年(大正15)に制作された松下春雄『下落合徳川男爵別邸』(水彩)。
■写真中上:左は、同年に描かれた松下春雄『徳川別邸内』(水彩)。右は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる徳川邸界隈。
■写真中下:左は、1936年(昭和11)に陸軍によって撮影された徳川邸の旧邸の様子。このとき、「静観園」は母屋の北側(現・西坂公園あたり)から東側にかけて存在していた。右は、1947年(昭和22)に米軍のB29によって撮影された徳川邸。新邸の位置が、やや南へと移動しているのがわかる。また、「静観園」は東側の斜面へと移動している。
■写真下:左は、1947年(昭和22)の空中写真にみる、南側のバラ園があったあたりと、東側の「静観園」の様子。右は、徳川邸がある西坂の趣きのある現状。