下町の町内会といえば、その歴史は江戸期にまでさかのぼる。町名主を中心とした寄り合いや、裏店(うらだな)の差配たちを中心とした寄り合い、あるいは居住地は厳密に問われなかった連や講、仲間なども、一部は明治以降の町内会へと変遷する母体となったようだ。だから、話し合われるテーマや課題によっては、集まる場所も顔ぶれも違っていた。戦前、東日本橋地域の町内会長は、数軒隣りの立花屋さんClick!二代目(小林信彦の親父さん)だが、そのころにはいまの町会に近い組織になっていたのだろう。
 山手において町会が発足するのは、明治以降のことだ。調べてみると、数多くの町会が1923年(大正12)の関東大震災Click!を境に設立されていることに気づく。つまり、乃手の町会の多くは、大震災における「自警団」が母体になっているのだ。目白・下落合界隈を見てみよう。たとえば、目白文化村の町会だった「廿日会」(二十日会)について、1932年(昭和7)に編纂された『落合町誌』には次のように記されている。
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 本会は大正十二年九月震災当時の警備後隣保互助の実を挙げん為めに設立したるものにて、初めは会員六七名に過ぎず、此の小さた(ママ)芽生へが地元発展に伴ひ今日百余名の多数に至つてゐる、本会は品位ある紳士構成でもあるが、会役員の尽力も遺憾なく洵に隣保交渉が爽々としてゐる。  (同書「人物事業編」より)
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 「自警団」が、そのまま町会へとスライドしたことがわかる。目白文化村の「廿日会」はその後、下落合でさまざまな事業を興し、イベントを開催して徐々に会員数を増やしていく。落合第一小学校のプールを造成し、学校へ寄付したのも「廿日会」の仕事なら、文化村で不足していた下水道を増設するなど、さまざまな公益事業を行っている。ちなみに、目白文化村は「完全下水」と販売コピーにはうたわれていたが、一部区画では未整備だったようだ。一方で、コンサートや茶話会、パーティ、スポーツ大会、子ども会などを、第一文化村のクラブハウスClick!で主催していた。
 
 では、関東大震災で「朝鮮人が攻めてくる」、あるいは「井戸に毒を入れた」、「主義者たちが不穏な動きをしている」といったデマゴギーが、いともたやすく東京じゅうに拡がっていたころ、目白・下落合界隈の情景はどのようなものだったのだろうか? この地域で組織された、「自警団」の様子を記録した、貴重な資料が残っている。小シーボルトの子孫である、岩本通雄が著した『江戸彼岸櫻』(講談社出版サービスセンター)から引用してみよう。
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 これはいけない、とりあえず警戒しようと言(ママ)うことになり、村の入口、一丁目の所に関所を作ろうということになりまして、その場所に当る足袋屋さんと薪炭商が、それぞれ裁ち台や、縁台を持ち出して街道に柵を造り、あとは林檎箱、蜜柑箱などを積み上げて、人一人しか通れないようにしました。/ここは主力として、上野黒門で幕府の彰義隊士として戦った大名、立花家(ママ)の藩士、今は靴屋として身をひそめております。立花屋の三人兄弟が、腰に家伝来の大刀を差して参加しました。/続いて長身の紺屋さんが佐々木小次郎が使う物干竿のように長い刀を持って乗り込んで来ました。チンチクリンでドンモリの足袋屋さんは普段の和服白たび襷掛け姿ですが今は尻っぱしょりという恰好で、木製の椅子を関所の入口に据え、それに、関守よろしく腰掛け、入口をにらみつけております。(中略) 目白駅の貨物運送をあずかる古口さんからは、ボスのおやじさんが少し中気の気味なので、せがれ兄弟が同様に刀を二本両手に一本ずつさげて、関所の要員として参加しましたから、関所も大分恰好が整って来ました。 (同書「目白の関所」より)
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 こうして、武装した「自警団」は、目白・下落合界隈に限らず東京のあちこちに「関所」を設け、根も葉もないデマに動揺しながら、通行人を傷つけ殺戮していった。千駄ヶ谷にいた伊藤子爵邸の息子が、「自警団」から激しい暴行を受け、のちに演劇の世界へ進むとその怒りをベースに、芸名を「千駄ヶ谷コリアン」(千田是也)と名乗った話Click!は以前にも書いた。また、下落合の佐伯祐三は、大震災とともに静養先の信州渋温泉からもどり、被災地を写生してまわっているが、やはり「自警団」から激しい暴行を受けているようだ。その記憶を消してしまいたかったのか、あるいは「自警団」に没収されたものか、そのときのスケッチは1枚も残っていない。

 目白・下落合の「自警団」がそうだったように、下町からの避難民が震災当日の夕方から激増するにつれ、相対的に被害が軽くて済んだ山手は急速に冷静さを取りもどし、「関所」を取り払って救済活動や支援活動を展開しはじめている。このときのボランティア活動がベースとなり、山手の多くの町会が組織化されることになる。
 こうして、さまざまな公益事業や催事を行う自治組織として、山手の町会は発展していくのだが、昭和に入り戦時色が強まるとともに、国家総動員体制の末端組織として組み込まれ、戦争への強力体制が築かれていくことになる。それは、山手も下町もまったく同様だった。

■写真上:「自警団」により「関所」が設けられたと思われる、目白通りの旧・落合村入口あたり。もちろん、目白通りは大きく拡幅されているので、大正期の道路(旧・清戸道)の面影はない。
■写真中:左は、震災で大きな被害を受けた日本女子大学校の校舎。屋根がゆがみ壁も激しく波打って、大小の亀裂があちこちに入っているのが見える。右は、9月1日の午後から多くの罹災者が避難した学習院のキャンパス正門。正門内側から、目白通りを眺めたところ。
■写真下:1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる、「関所」が設けられたあたり。