戦前、現在のおとめ山公園を含む広大な敷地、下落合字丸山に大きな邸宅Click!をかまえていた相馬子爵邸は、1936年(昭和11)に当主の相馬孟胤が亡くなると、しばらくはそのまま下落合へ住みつづけたが、おそらく太平洋戦争がはじまる前後に、どこかへ屋敷ごと転居している。この事実に気がついたのは、1944年(昭和19)に陸軍の航空機が撮影した最後の機会とみられる、空中写真を仔細に観察していたときだ。
 これまで、わたしは周囲の方々から相馬邸は黒門Click!を残して、空襲による延焼で全焼した・・・というお話をうかがってきた。だから、1947年(昭和22)に米軍のB29が撮影した空中写真を見て、邸の敷地にはなにもなく、地面がむき出しの廃墟になっているのを、なんら不思議に思わなかったのだ。ところが、目白・下落合界隈が空襲される以前に、相馬邸の屋敷は跡形もなく更地となっている。しかも、1944年(昭和19)現在には、母屋の建っていた位置を横切る東西の道路(現在の財務省官舎前の通り)までが、新たに造成されているのが見てとれる。
 つまり、相馬邸は空襲で焼けたのではなく、それ以前にどこかへ移築されたか、あるいは解体されてしまったのだ。母屋ではなく、黒門のゆくえClick!は明らかになっている。黒門は戦後すぐのころまで、もとの位置にそのまま建っていたが、当時、相馬邸敷地を買収した東邦生命の太田清蔵が九州へと移築している。のちに、九州地方を襲った台風により破壊されてしまったらしいのだが・・・。
 
 1982年(昭和57)に出版された、竹田助雄Click!の『御禁止山-私の落合町山川記-』(創樹社)から、地元の老人に黒門のゆくえを訊ねている記述がある。
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 (前略)黒門は無かった。神輿をかつぎ込んだ周辺は静かなたたずまいの中流の邸で埋ずまり、当時の敷地は東西に二分した切り通しの坂道や、南北に二分した道路などからみて、再参にわたって分譲したようであった。/向こうから、ズボンに下駄を履いた土地の人らしい老人が一人、小犬を連れ、散歩の足どりでやってくる。/黒門の行方を、訊ねてみようと思う。
 「----ここに、相馬さんの大きな黒い正門がありましたね。ご存知ですか」
 「ああ、知ってるよ」
 「あの門、どうしたんでしょう。戦災で燃えたんですか」
 「戦災じゃないな。あの黒門はな、九州へ送ったって話だ。太田清蔵がな。戦争が済んで、何年頃だったかな・・・。暫くここに在ったんだよ。太田清蔵てえのは、ここの持主だ」(同書「御禁止山」より)
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 このとき、ついでに母屋のことも併せて訊ねていたとしたら、老人は間違いなく「戦災じゃないな」と、そのゆくえをはっきり教えてくれたかもしれないのが、とても残念だ。
 戦時中に建物ごとどこかへ疎開してしまったものか、あるいは近衛邸のケースと同様に敷地を売却する必要性が生じたもか、あるいは戦前からすでに買収していた東邦生命の社長が、黒門と同様にどこかへ移築したものか、当時の地元の人たちでさえ「戦災」と「移転」とで記憶が曖昧になるほど、それは急に決定されバタバタと行われたように思われる。
 通常の状態であれば、これだけの建物が解体されているのだから、周囲の人たちには強い印象とともに、はっきりとした記憶が残るはずなのだけれど、それが混乱しているところをみると、解体(移築?)が行われたのは、1941年(昭和16)から1944年(昭和19)までの間、つまり太平洋戦争がはじまり年々戦局が激化していった時期、すなわち世間が騒然としているとき、急に将門相馬家の引っ越しが行われたような気がしてならない。
 相馬邸の移転先は、はたしてどこだったのだろう? 福島県の“国許”である相馬市だろうか、それとも陸軍に接収されてしまったゴルフコースのある、先代が頻繁に行き来していたとみられる駒沢あたりだろうか。地元の記憶に混乱を残すほど、相馬邸は忽然と消え失せている。
★のちに、相馬邸は中野に転居Click!した詳細が判明Click!している。

 
 
 余談だけれど、地元で西武鉄道が「西武電気鉄道」と呼ばれていた証言を、わたしが口述で取材したほかに、『御禁止山-私の落合町山川記-』の中にも見つけたので、忘れないうちに掲載しておくことにする。このほか『落合町誌』をはじめ、さまざまな資料に同様の記録がみえている。
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 豊多摩郡落合町に引越して来たのは昭和六年八月だった。満州事変が勃発したのはその年の九月である。初めは下落合駅と中井駅の中間の線路っ端で、西武新宿線が西武電気鉄道と呼ばれたころであった。 (同書「御禁止山」より)
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 竹田助雄が転居してきた当時、落合町の人口は約32,000人だった。現在は、旧・下落合と旧・上落合の全域および葛ヶ谷(西落合)を合わせて、人口は56,353人(2007年1月現在)となっている。

■写真上:左は、黒門跡の現状。右は、1936年(昭和11)撮影の黒門を現状に当てはめてみる。
■写真中:左は、1936年(昭和11)に上空から見た相馬邸。右は、1944年(昭和19)の相馬邸跡。翌年の4月からはじまる空襲前に、相馬邸はすでに解体済みで存在していない。
■写真下:戦後の1947年(昭和22)に米軍が撮影した空中写真と、現状写真の撮影ポイント。財務省の官舎中庭に、相馬邸のものと思われる礎石が残されているが、おそらく建物跡の礎石そのままではないようだ。もともとこの位置は、邸南の庭園(芝庭?)だったところで、空中写真にも建物は見られない。母屋の解体時に、礎石を掘りおこしてこの位置にまとめて並べられたものか?