下落合に暮らした女性アルピニストのパイオニア・黒田はつ子(初子)Click!は、戦前の婦人誌へ山に関するさまざまなエッセイを残している。中でも、特に数多く寄稿していたのは、宇野千代が創刊した女性生活誌『スタイル』(スタイル社)だ。女性の山歩きやスキーがブームになった昭和初期、黒田の山をめぐる文章は、彼女たちの貴重な情報源となっただろう。
 1936年(昭和11)の『スタイル』12月号には、「初めてスキーをする婦人へ」と題する文章を寄せている。スキー用具の選び方から、スキー術を修得するノウハウまで、こと細かに解説している。中でも、安あがりにスキーを楽しむなら、スキー板はレンタルがいいし、スキーウェア(当時は「スキー服」)を買わず、着物にモンペ姿も“あり”だと奨めているのが昭和初期らしい。
 1938年(昭和13)の『スタイル』4月号には、「ご夫婦ハイキング」というタイトルで、生藤山(しょうとうざん/990m)の山歩きを推薦している。神奈川県と山梨県、そして埼玉県の県境を形成する、丹沢山塊の真裏に位置する山だ。中央線を「与瀬」あるいは藤野で降りて、バスで登山口まで向かう。わたしは、神奈川の山々は馴染み深いけれど、中央線の北側エリアは不案内だ。
 余談だけれど、中央線の「与瀬」駅というのは、現在の相模湖駅のことで、相模湖は1947年(昭和22)に相模ダムの完成とともにできた人造湖。小学校の遠足や子供時代のハイキングでも、繰り返し訪れた懐かしい場所だ。おそらく、神奈川県の相模川総合開発の第1次開発計画で造られた水がめで、相模湖と津久井湖の完成により、神奈川県東部の水不足は一気に解消された。そればかりか、東京23区の西部へ水道水を供給(援助給水)するまでになっていく。下落合で飲んでいる水道水にも、いまだ神奈川の丹沢山塊の水がブレンドされているのかもしれない。
 
 黒田は、与瀬(相模湖)から和田峠へと抜け、そこから生藤山への登山を推奨している。
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 東京の近くにあんな美しい山があるのに割合に人が行かないのではないかと思ひます。和田峠から登り路凡そ三時間あれば、昼の夢でもむさぼらない限り、いくらゆつくり歩いても生藤山に着くことが出来ます。頂上には四阿(あづまや)が一軒あります。帰途は中央線の上野原へ下りた方が興味がありませう。すすき野をかき分けて行く尾根歩きです。遠山が紫に霞む春の午後など、仲よしのベターハーフとあんな所をサツソウと歩くことを考へて御らん遊ばせ。映画や銀ブラなんか問題ぢやなくなるでせう。それに費用だつて一人分参円位で済むのですから。
 頂上を二時半頃に出掛ければ、上野原六時三十九分といふ汽車に間にあひます。これが新宿に八時七分に着きますから、まだ遊び足りなければムーランルージユでも武蔵野館にでも行く時間があります。  (同誌「ご夫婦ハイキング」より)
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 新宿にもどってから、まだ遊びたりないかも・・・と考える黒田初子の体力は並みでない。彼女が歩いた当時、きっと生藤山は人も少なく美しかったにちがいない。いまでは、週末ハイキングの集合地となっていて、土日の相模湖駅や藤野駅は都内のハイカーたちが集るメッカだ。両駅の周辺には温泉郷が点在しているのも、大きな人気を呼んでいるポイントだろう。
 
 ただ、黒田がハイキングを楽しんだ当時と現在とでは、大きく異なっている風景がある。山奥へ入れば、昔ながらの美しい広葉樹林帯の山々が現れるけれど、中央線沿いの山々、特に駅に近い低山はスギ林だらけだ。林業がむずかしくなった現在、スギ林の多くは下枝を落とされることもなく、野放図に放置されたままとなっている。
 黒田は「遠山が紫に霞む春の午後」と書いているけれど、いまでは遠山が黄色に霞む春の午後の情景を「考へて御らん遊ばせ」。これらスギ林の膨大な花粉が、ちょうどこれからの時期に東京へ向かっていっせいに吹き寄せてくる。だから、わたしは2月から4月ごろにかけて、このエリアへは絶対に足を踏み入れないようにしている。ことにスギ花粉へひどく敏感な方なら、アナフィラキシーショックを起こして、呼吸困難になりかねないありさまなのだ。
 いま、これらのスギ林を少しずつでも減らして、武蔵野本来の広葉樹の自然林へともどそうとする、“木を植える人”たちの地道な活動Click!が、少し前から新宿でもつづいている。

■写真上:左は、下落合の黒田邸跡。右は、1979年(昭和54)の空中写真にみる黒田邸。
■写真中:黒田初子が夫とともに逍遥した、与瀬(相模湖)から藤野、上野原あたりの山々。
■写真下:左は、昭和初期の山登りの様子。右は、酸性雨Click!の影響だろうか森が荒れている。