ご子孫の方がおみえなので、長崎の「安達牧場」についての記事を大急ぎでアップします。2月末からスタートしている目白文化村の連続記事は、ほんの少しお待ちください。
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 1920年(大正9)に、長崎村の旧家である足立銀次郎家の三男に生まれた足立慶造は、29歳のとき「安達牧場」Click!を創業している。東京市内では、年々牛乳や乳製品に対する需要が高まり、まさに時機をえた起業だったろう。おもな販路は、地元の長崎や落合地区、雑司ヶ谷旭出(現・目白)のほか、東京市内では牛込区と小石川区がマーケットの中心だったようだ。
 先日、ある方から1929年(昭和4)に出版された、お隣り町の『長崎町誌』のコピーをいただいた。その中から、「安達牧場」を経営していた足立家のページを引用してみよう。
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 当家は連綿たる旧家にして、氏は明治二十五年五月十日を以て銀次郎氏の三男に生る。当町収入役として長期間在任せる足立銀次郎氏は実に氏の実父である。氏は大正九年二十九歳の当時現所へ分家し、牛乳商独立開業した。爾来需用日々に激増し、現在にては雇人二十五名を置き益々発展しつゝある。当町に於ける業界の一流たる重鎮であることはいふまでもない。
                                    (同書「長崎町名士録・人文篇」より)
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 1927年(昭和2)に、結核に感染した乳牛のミルクが売られていることが問題となり、警視庁は「牛乳営業取締規則・改正」を発令して、牧場の衛生環境の向上に着手している。足立慶造は、早くから牛乳の低温殺菌技術に取り組んでいたようで、『長崎町誌』が出版された1929年(昭和4)当時、すでに「低温牛乳安達牧場」の名前は広く知られていたらしい。同時に足立慶造は、衛生的で信頼性の高い安全牛乳「キングミルク(牛乳)」ブランドを起ち上げている。
 『長崎町誌』に掲載された、当時の安達牧場の写真を見ると、門前には牛乳運搬用のトラックや、大八車を改造した牛乳配達車がずらりと並び、牧場内に牛乳加工場があったらしいことがわかる。毎朝搾乳された牛乳は、加工場で低温殺菌のあとガラス瓶に詰められ、「キングミルク」商標入りの「王冠」をかぶせられて、東京各地へ出荷されていたのだろう。当初は、牧場内の加工場で間に合っていたのかもしれないが、「キングミルク」の人気が高まりニーズが急増すると、近くの牧場にある加工場の生産ラインを、一部借りうけていたものと思われる。

 目白崖線の南、「バッケが原」Click!つづきの上高田322番地に設立された「牧成社牧場」へ、安達牧場から牛乳が運ばれていたという伝承は、おそらく同牧場の加工場設備を借りて「キングミルク」を生産する契約をしていたのではないだろうか。面白いことに、牧成社牧場のすぐ北側、妙正寺川近くの上落合570番地に、「キング牛乳」の販売店が開業している。
 その後、東京近郊に点在していた“東京牧場”Click!は、大手の牛乳業も含めた業界の再編が行われ、「東京保証牛乳」ブランド(のち雪印乳業に吸収)として再出発することになる。現在でも、「保証牛乳」という名称は全国各地に残っているけれど、これは自治体が牧場や加工場への立ち入り検査を行い、その衛生や安全を「保証」した当時の制度に由来しているのだろう。
 
 下落合周辺に点在した“東京牧場”が、衛生と安全性の向上をめざして、牧舎環境の整備や加工場の生産ライン改善を競っていた時代から65年後、東京保証牛乳の遺伝子を受け継いでいるはずの雪印は、被害者1万3千人を超える乳業史上最悪の食中毒事件(2000年)を引き起こした。「私は寝てないんだ」とコメントした元社長からは、寝ないで牧場の環境改善に取り組んでいた“東京牧場”の精神は、もはやみじんも感じられない。

■写真上:1929年(昭和4)ごろの安達牧場。大八車仕様の「牛乳配達車」がずらりと並んでいる。
■写真中上:左は、長崎の安達牧場跡。右は、低温殺菌のあと瓶詰めされる昭和初期の加工場。
■写真中下:1938年(昭和13)の「火保図」にみる、上高田322番地の牧成社牧場とその加工場と思われる建物。すぐ北側の上落合570番地には、安達牧場の「キング牛乳」販売店が見える。
■写真下:左は、昭和初期の「東京保証牛乳」の広告。赤ちゃんのイラストが描かれているのだが、ちょっと不気味だ。右は、昭和10年代と思われる東京保証牛乳の配達用保冷車。