少し前、きくち@分離派建築博物館さんClick!から第一文化村のN邸Click!に関連して、たいへん貴重な情報をお寄せいただいた。それは、邸内に飾られた彫刻やレリーフが、彫刻家・荻島安二の作品だった・・・というものだ。ちょうどそのとき、わたしはアビラ村Click!(芸術村)の島津源吉邸Click!関連の資料を整理していたのだけれど、島津源蔵(二代目)の長男である島津良蔵も下落合414番地、いわゆる近衛町(このえまち)に住んでいたことに気がついたのだ。
 荻島安二と島津良蔵、このふたりの名前が登場すれば、必然的に日本ならではの洋マネキンの源流である、「島津マネキン」へと行き着くことになる。島津良蔵は、東京美術学校で朝倉文夫について彫刻を学び、1925年(大正14)の卒業と同時に島津製作所の標本部へ入社している。おそらく、学生時代からマネキン関連の会社を興そうと考えていたのだろう。その年のうちに、彼は京都で「島津マネキン」を創業している。
 一方、荻島安二は慶應義塾大学予科から朝倉文夫の門下生となった異才で、文展を中心にオーソドックスな作品を創りつづける半面、既成の創作法にとらわれない斬新なモダニズム表現や、建築と彫刻との融合をめざすなど、きわめて前衛的な仕事も手がけていた。赤坂にあった映画館の「葵館」は、村山知義Click!らとともに創りあげた荻島渾身の力作だったろう。おそらく師の朝倉を通じて、美術学校在学中から島津良蔵とも親しく交流していたと思われる。荻島安二の仕事については、きくち@分離派建築博物館さんがつい先日、 『「葵館」レリーフの彫刻家―荻島安二』Click!のタイトルでたいへん素晴らしいページを制作されているので、ぜひそちらをご参照いただきたい。
 
 島津マネキンがスタートした当初から、荻島安二は早くも2体の作品を提供している。最初の作品は子供の姉妹像だったようで、最終的に石膏で造られたこの2体の像が日本初の洋マネキンとなった。設立当初の大正末は、いまだ日本では和装がほとんどだったため、“生き人形”の流れをくむ和マネキンが主流を占め、洋マネキンは販路が狭くなかなか売れなかったようだ。しかも、石膏製という素材の性質から受注後の短期納品がむずかしく、島津マネキンでは素材選びから製造法にいたるまで、数年間の試行錯誤がつづいたらしい。
 昭和に入ると、ようやく洋装が少しずつ浸透しはじめ、1931年(昭和6)に起きた白木屋Click!の惨事がきっかけかどうかは不明だけれど、洋装への需用が急激な伸びをみせはじめる。その前年、1930年(昭和5)に島津良蔵は、独自製法であるファイバー製洋マネキンの開発に成功しており、量産へのめどもつきはじめていた。それから5年あまりのち、島津マネキンは年間生産量が約5,000体、国内シェア85%を占める日本最大のマネキンメーカーへと成長していく。荻島安二もその間、次々と新しいタイプの洋マネキンモデルを発表していった。
 
 1926年(大正15)の「下落合事情明細図」を見ると、島津良蔵邸は近衛町通りにいまも残る交番の真向かい、南隣りに建っていたのがわかる。前年に東京美術学校を卒業し、京都で島津マネキンを創業したてのころだけれど、おそらくこの邸が東京における事業活動の拠点だったのだろう。ひょっとすると美術学校在学中に、親戚も下落合に住んでいた関係から、同所で暮らしていたのかもしれない。そして、島津良蔵がまだ美術学校へ通っていたころ、親しかった荻島安二と連れ立って、第一文化村のN邸を訪ねやしなかっただろうか?
 以前、早稲田通りだか目白通りをノシノシと歩く、1941年(昭和16)に撮影された壺井栄と藤川栄子の写真をご紹介Click!したけれど、その背後に見えているショウウィンドウの中で“正ちゃん帽”(爆!)をかぶった子供マネキンも、ひょっとすると島津マネキン製なのかもしれない。

■写真上:右は、下落合の近衛町にあった島津マネキンの創業者・島津良蔵邸跡。
■写真中:左は、1933年(昭和8)に制作された荻島安二『Kの像』。右は、1938年(昭和13)に制作された同『マスク(マレーネ・デートリッヒ)』。ともに、東京国立近代美術館に収蔵されている。
■写真下:左は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる近衛町の島津良蔵邸。右は、1936年(昭和11)現在の空中写真にみる同邸。