銀座にあった有名な目薬屋(精錡水本舗)の岸田家では、生卵をご飯にかけ紫(生醤油)をたらして混ぜ合わせる「玉子飯」が、頻繁に食べられていたにちがいない。この単純だがうまいレシピは、岸田劉生Click!の父である岸田吟香Click!が初めて試みたという伝承が、いまだ東京に残っている。
 少し前に、面白い本が出た。江戸で食べられていたさまざまな飯類を、できるだけ当時のレシピにもとづき忠実に再現した、ピエ・ブックス発行の『Meshi~飯~』(2006年)だ。ここに掲載された飯の数々は、汁かけ飯、混ぜご飯、炊き込みご飯、変わり飯、雑炊(おじや)、粥(かゆ)とかなりの点数にのぼるけれど、実際に存在した江戸飯のレシピの、ほんのごくごく一部にすぎない。中でも病人食である「粥」まで収録するという、かなりマニアックな編集となっている。
 本書でも触れられているが、江戸東京地方では粥はふつう重い病人がやむをえず食べるものであって、昔から健康人が口にすることはない。わたしが子供のころ、病気になっても粥が出てくることはまずなく、たいがい雑炊(おじや)の類だった。
 
 おそらく、親たちも粥がキライで作りたくなかったのだろう。粥=重病食のイメージが強いせいか、病人に粥を食べさせるとよけいに病状が重篤に感じられ、患者が気落ちしてしまうという考えも、いまだに根強く残っているような気がする。唯一、例外的に粥と梅干しが出てきたのは、麻疹(はしか)で40度近い熱が出て死にそうな思いをしたとき、一度きりだったように記憶している。
 わたしは茶漬けClick!が大好きだが、この本に紹介されているだし汁や澄まし汁をかけて食べる、江戸の香プンプンの「汁かけご飯」、通常下町Click!では打(ぶ)っかけご飯と呼ばれる飯も大好きだ。いい白魚(しらうお)やハマグリ、カツオなどが手に入ると、さっそくやってみたくなる。
 ちなみに、アサリを味噌仕立てのだし汁とともに、飯へ打(ぶ)っかけて食べる「深川飯」は、わたしは大好きだけれど親父はキライだった。ハマグリに比べ、アサリの香りがイマイチだったからだろう。貝としての食感の違いもあったかもしれず、赤貝や青柳、平貝の類は好きだったのか、黙って食べていたのを思い出す。曾宮一念Click!なみに、“食いもん”にはうるさい人だった。
 
 さて、混ぜご飯のひとつである愛すべき「玉子飯」。岸田家伝承とは裏腹に、1803年(享和3)に書かれた『素人包丁』にも、すでにレシピが掲載されている。卵アレルギーの子は食べられなくてかわいそうなのだけれど、『Meshi~飯~』から作り方を引用してみよう。
  ●
 玉子を溶きほぐし醤油少々を入れる。/醤油は控え目にし、足りなければ食べる際に各自で足す。/炊き上がった飯に溶いた玉子を入れ混ぜる。/椀に盛り、小口に切った浅葱を散らす。米2合で玉子一つが目安。 (同書「混ぜご飯・炊き込みご飯」より)
  ●
 新鮮な卵があれば、つい毎朝でも食べたくなってしまう「玉子飯」。浅葱の代わりに、三つ葉や浅草海苔、青海苔をかけてもうまいのだ。また、少し油っぽいけど韓国海苔でも美味いにちがいない。
 
 岸田劉生の家でも、おそらく親父ゆずりの「玉子飯」がよく食べられていただろう。劉生が一時身体を壊して、東京近郊から藤沢Click!へと転居するあたり、当時は栄養価が高いと信じられていた「玉子飯」が、食卓へ頻繁に登場していたのかもしれない。
 いまでは、栄養学の面から考えると、「玉子飯」だけでは非常にアンバランスなのだけれど・・・。

■写真上:左は、岸田吟香が江戸期から始めたという“伝説”が残る「玉子飯」。右は、鎌倉の材木座にアトリエを構えた、晩年の岸田劉生。右隣りは、大きくなった娘の麗子Click!。
■写真中上:左は、ピエ・ブックスが発行した『Meshi~飯~』。右は、江戸の町中で商う天ぷら屋。
■写真中下:左は大川の風物詩「白魚飯」で、右はアサリより香りの良い「蛤飯」。
■写真下:左は「芝海老飯」で、右は「鰹飯」。東京の芝浦でエビが獲れなくなっても“芝海老”と呼ぶのは、浅草に海苔漉き場がなくなっても和紙状の海苔をすべて“浅草海苔”と呼ぶのと同じだ。