きょうから、横浜駅前のそごう美術館Click!で「没後80年・佐伯祐三展-鮮烈な生涯-」展がスタートした。割引チケットとパンフレットは、下落合のカフェ「杏奴」Click!で入手できる。
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 寺を訪れると「これは神社ですよ」、神社を訪ねると「これはお寺でしょう」というお答えがいちばん多い、佐伯祐三Click!の『絵馬堂(堂)』。堂前の軒下に吊られている鳴り物が、鰐口なのか鈴なのかでも、おそらく建物の性格は大きく変わるだろう。今回は、上高田に密集する寺院を集中的に歩いてきた。ちょうど佐伯が、「洗濯物のある風景」Click!を描いた位置から、南へ数百メートル、牧成社牧場Click!があったあたりの丘上が、おもに大正期からの寺町を形成している。
 この一帯にある寺院の建立歴は、比較的新しいものが多い。もっとも古い寺でも、江戸期からのものだ。多くの寺々は、明治から大正期にかけ下町から引っ越して本堂を建てている。創建は古くても、この地域での建立年代が新しいのだ。江戸期から近くに落合火葬場があったせいで、その周囲へ自然に寺町が形成されたのだろう。堂の建築は比較的新しいにもかかわらず、東京市街のように大震災や大空襲の被害をまったく受けていないため、かえって古い東京の寺町の風情をよく残している。どこか、上野桜木あたりの街並みを思い浮かべてしまう。
 
 その寺々を、佐伯の『絵馬堂(堂)』画像を手に、片っぱしから訪ね歩いた。「こんな建物なぁ見たこたぁないね」(面白いことに下町言葉だったりする)、「先代が逝きましたので、わたくしどもの代ではわからないのでございますの」(今度は乃手言葉)と、またしても空振りに終った。訪れた寺は、順番に神足寺、金剛寺、境妙寺、願正寺、宝泉寺、功運寺の六刹。この中で、佐伯の光徳寺と同じ真宗大谷派は、神足寺と願正寺だった。
 改めて考えてみると、大震災や空襲による被害を受けていないこのエリアは、佐伯の時代と同じ建物がそのまま建っている確率が高い・・・ということになる。よほど傷まない限り、堂を建て替えることはないだろう。また、たとえ解体・リニューアルや増改築がなされたとしても、これほど隣接したすべての寺で記憶がなくなってしまうというのは、通常考えられない。『絵馬堂(堂)』に描かれた建築は、上落合の西側一帯に拡がる寺町には存在しなかった・・・ということだ。
 
 このところ、『絵馬堂(堂)』探しは神社ではなく、意識的に寺院をていねいに当たっている。それは、上高田の氷川明神で拝見した、大正初期に作成された近隣神社の“一覧カタログ”が念頭にあるからだ。そこには、旧・豊多摩郡にあった神社が、すべて写真入りで網羅されていた。もちろん、落合地域も全域カバーされているのだけれど、『絵馬堂(堂)』のような建物は発見できなかった。自性院でご教示いただいたとおり、神仏習合時代(明治期以前)に建てられた、寺院内の堂のひとつである可能性が高いように思う。
 功運寺に寄ったので、せっかくだから歌川豊国Click!(初代~三代)と吉良上野介義央Click!の墓へお参りしてくる。なにかと屋敷周辺の江戸町民へ気をくばり、無料施療・施薬や生活面での義捐活動をつづける一方で、甘やかされて育ったのか、こらえ性がなくキレやすい赤穂藩主の若者には厳しかったらしい、ちょっと格好つけたがりだったみたいだけれど弱者には意識的に優しかった、わたしは吉良のじいちゃんが好きなのだ。
  
 ついでにといっては失礼だけれど、いつもこのサイトでなにかと書かせていただいている、林芙美子Click!の墓にもお参りしてきた。

■写真上:左は、神足寺から金剛寺へと抜ける寺街の道筋。薬王院のClick!を想わせる、大正時代の面影のままだ。右は、1926年(大正15)に描かれた佐伯祐三『絵馬堂(堂)』
■写真中上:左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる上高田の寺町。右は、金剛寺の本堂。
■写真中下:左は、浄土真宗大谷派の願正寺。右は、いちばん規模が大きい功運寺。
■写真下:左から右へ、歌川豊国一門、吉良義央、林芙美子の各墓。吉良墓地には、12.14テロを迎撃した“忠臣”たちも合葬され、中には満13~14歳の子供までが赤穂浪人に殺されている。