最近、ラッシュ時に走る「女性専用車両」が目につく。地下鉄ではあまり目にしないので、地上線に多いようだ。あるいは、導入されている区間や時間帯にもよるのだろうか? チカン対策あるいは混雑時の危険防止なのだろうが、わたしは地下鉄を利用することが日常的に多いので、朝たまたま地上線に乗ったりするとめずらしくて気がつく。きょうは女性の乗客がやたら多いな・・・と思っていると、知らずに女性車両のホーム位置へ並んでいたりする。
 「女性専用車」の発想は、別に新しいものではない。東京では、明治期の鉄道から導入されていたしくみだ。早くから取り入れられたのは、「甲武線電車」すなわち現在のJR中央線だった。しかも、当時は車両の一部を女性専用にしたのではない。電車1本が丸ごと、女性専用電車として増発していたのだ。また、省線ばかりでなく東京市街を走る市電も、女性専用車を走らせていた。
 1912年(明治45)に発行された『婦人画報』の3月号に、朝と夕方に運行していた女性専用電車のめずらしい記事が掲載されている。写真に添えられたキャプションを、引用してみよう。
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 旧甲武線電車は中野、大久保、代代木其他より市内の学校に通学する女学生の往復に便せん為め、先頃より朝、夕数回婦人専用電車の運転を開始したり。四谷は学習院女学部生徒其他、市ヶ谷は三輪田、女子商業其他、お茶の水は附属高女其他の生徒の昇校夥しくあり、お下げ、マガレット、束髪のリボンの色うつくしく、朝夕の一しきりは時ならぬ花と賑ふ。 (同誌「婦人専用電車」より)
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 明治期には、もちろんチカンもいただろうが、女学校へ通う彼女たちClick!は、なにかと好奇の目で見られていただろうし、あるいは「ナマイキだ」と変なヲジサンに絡まれたりもしたのだろう。いまの感覚でいえば、イスラム教圏の街を女性がショールもまとわずノースリーブで歩くような、周囲から言わず語らずの圧迫感や、ときには暴力をふるわれたのかもしれない。
 当時は青山にあった学習院女学部(のち女子学習院)Click!へ登校しようと、大きなリボンをつけた“良家”の女学生が、代々木停車場で甲武線電車に乗り換えて四谷停車場へ向かう途中、乗りこんできた印半纏姿で職人風の、ちょっとどこか泉谷しげるに似た、酒臭い息の鬼瓦権蔵さんに・・・、
 「よっ、ねえちゃん、どこいくの?」
 「・・・・・・」
 「よっ、ねえちゃん。きれいなベベ着て、どこいくんだよ~」
 「・・・・・・」
 「うぇ~ぃ、よっ、女大学! ツンとすましゃがって、なぁ、この野郎」
 「・・・まあ」
 「この野郎じゃねえや、この女郎(めろう)だよ。よっ、ねえちゃん」
 「・・・ね、ねえちゃん?」
 「すかしてねえで、ま、一杯いこう。よっ、ねえちゃん。・・・ね~ちゃん!」
 ・・・てなことがたびたびあったので、「もう、わたくし恥ずかしくて、情けなくて、いたたまれない思いをいたしましたの。わたくし、ねえちゃんなんかじゃございませんことよ! ねえ、お父様、ほんとうに、なんとかならないものでございましょうかしら?」と、“有力者”の父親経由で鉄道省にかけ合った結果、朝夕の通学時に女性専用電車が走るようになったのだろう。

 掲載された当時の写真を見ると、四谷停車場や市ヶ谷停車場の様子がわかって面白い。また、東京市電の女性専用車には、女学生が列をなして乗りこむ姿がとらえられている。人数に比べ車両のサイズを見ると、相当な混雑ぶりだったと思われる。市電の運転手や車掌は、女性専用車の担当になると、女学生のムンムンする体臭や人いきれで酔ってしまったのではないだろうか。

■写真上:左は、女性専用電車を待つ四谷停車場の女学生たち。おそらく、ほとんどが青山にあった学習院女学部の学生だろう。右は、ようやく見つけた女性専用車両のステッカー。
■写真中:女性専用電車に乗る、市ヶ谷停車場の女学生たち。
■写真下:女学校前に到着した、午後3時ちょうど発の女性専用東京市電。すごい混雑ぶりだ。