大正時代の近衛町(山手線寄りの下落合)に建っていた邸宅群の写真資料を、ある方からまとめてお譲りいただいた。室内の写真や、間取り図までが詳しく掲載された貴重な画像類だ。これまで、目白文化村Click!に建っていた大正期の邸宅群は、ここで何度もご紹介Click!してきたけれど、同じ大正中期に開発された近衛町Click!に建つ邸宅写真は、ほとんど初登場といってもいい。各邸の様子を、これから数回にわたり記事にしてみたい。
 元・近衛篤磨邸の双子のケヤキClick!近く、下落合414番地の近衛町に小林盈一邸が建っていたのは、ほんの10年足らずの間だったようだ。1923年(大正12)ごろに建てられたと思われ、1926年(大正15)に発行された「下落合事情明細図」にも名前が収録されているけれど、1933年(昭和8)に撮影された学習院昭和寮の低空飛行写真Click!には、すでにオシャレな小林邸の姿はなくなっている。かわりに下落合414番地の敷地には、母屋から離れた蔵をもつ、どっしりとした2階建ての日本家屋のように見える海東邸の姿がとらえられている。東隣りにはテニスコートが見えており、この敷地も海東家が所有していたのかもしれない。
 1932年(昭和7)に出版された「落合町誌」Click!によれば、九州鉄道社長の海東要造が茨城県の本家から分かれ、分家独立したのが1929年(昭和4)となっているので、小林邸が解体されて海東邸が同所に建設されたのも、ちょうどそのころではないかと想像できる。そうすると、小林邸はわずか6~7年で解体されてしまったことになる。同邸に限らないが、他の下落合地域でも建築10年ほどでさっさと解体・新築されてしまう家々が多いのに驚く。今日の住宅観のみで、大正期における住宅寿命に対する考え方をとらえては、どうやらいけないようなのだ。貴重な小林邸の写真は、1924年(大正13)に発行された『住宅』1月号(住宅改良会)に掲載されていた。
 
 小林邸の外観を観察すると、元・近衛邸の車廻しのケヤキを背に北西の道路側から見ても、また南側に通う東西の道路側から見ても、尖がり屋根が美しい瀟洒なたたずまいを見せている。家と家とが隣接している住宅だと、表側(道路側)のデザインには凝った意匠を見せるが、裏側は省コストかつ機能中心で・・・という考え方が一般的だけれど、小林邸のケースは360度、どこからでも眺められる位置に建てられていたので、ことさら外観デザインには力を入れたのだろう。どちらを向いても「表側」のような、スキのない美しいデザインだ。
 屋根は赤い瓦葺きで、外観の主要な柱はホワイトで塗られている。屋根の下はスタッコ仕上げで、2階の窓のすぐ下あたりから防腐剤を塗った焦げ茶色の下見板の外壁が1階までつづき、基礎の礎石にはおなじみの大谷石が数多く用いられている。小林邸は、東京土地住宅Click!から敷地を購入したあと、同社には建築を頼まず、橋本信助の「あめりか屋」へ設計および施工を依頼している。建設を指揮したのは、同社の技師長だった山本拙郎Click!なのかもしれない。
 屋内の造りはシンプルかつ実用的で、女中部屋が存在しないのが当時の邸宅としてはめずらしい。第一文化村に建てられたN邸Click!と同様に、家庭の仕事は家族が分担・協力してこなしていけばいい・・・という、当時としては新しいライフスタイルの考え方が感じられる。1階の居間も、家族がいつも集合できる場所であることを意識し、4畳半の客間(応接室)よりもはるかに広い12畳大の大きな間取りとなっており、あくまでも家族中心の設計思想が強く感じられる。

 
 
 また、畳敷きの和室が1室しかなく、あとはすべてが板敷きの洋間として設計されている。2階には主寝室のほかに、もうひとつ広い居間兼寝室が造られているが、これは子供が成長したときのことを考慮したものだろう。さらに、2階の各部屋には「入れ込み」と呼ばれる、外側に張り出したフリースペースが設けられていて、子供の勉強机を置いたり、おそらく書斎がわりに書き物机や、衣装を整理するクローゼットなどを置けるようにしたものだろう。
 2階の居間兼寝室の写真をよく見ると、窓外のバルコニーの手すりが写るその向う側に、尖がり屋根をもつ建設中の西洋館がとらえられている。位置的にみると、近衛町通りをはさんで小林邸の南西側の敷地に建っていた、鈴木孝三邸あたりのようだ。屋根に立てかけられた材木までがクッキリと写っているけれど、この2階建ての西洋館も1933年(昭和8)に撮影された先の低空飛行写真には見あたらない。どうやら、近衛町には大正末から昭和初期にかけ、先の岡田虎二郎邸Click!も含め、住民の入れ替わりと邸宅の建て直しが頻繁に行われていた形跡がある。昭和初期に起きた大恐慌のあおりを受け、近衛町の住民も流動的に変動していたのかもしれない。また、カーテンの陰になっているが、大きな屋根の長瀬邸Click!と思われる建物も見えている。
※岡田虎二郎は生前、下落合356番地に住んでいたことがわかり、近衛町の下落合404番地は彼の死後、大正末に家族が転居した住所であることが判明Click!した。
 
 小林邸は外観も美しく、これだけ機能的で住みやすそうな新しい建物にもかかわらず、すぐに取り壊されてしまったようなのが残念だ。間取り図を今日の目で見ても、ほとんど不自由を感じずに暮せそうな、現代的なレイアウトとなっている。おそらく2階のバルコニーからは、目白文化村とはまた雰囲気の違った、独特な近衛町の街並みが目前に拡がっていたのだろう。

■写真上:左は、下落合414番地に1923年(大正12)ごろに建てられ昭和初期まで建っていた、近衛町通り側(北西側)から眺めた小林盈一邸。右は、南西側から眺めた現在の同所。
■写真中上:左は、南側の庭から見た小林邸の居間の張り出しと、その上に設けられたバルコニー。右は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる小林邸。
■写真中下:間取り図と各部屋。①応接室、②居間、③子供室(2階居間)、④2階居間兼寝室。
■写真下:左は、2階のバルコニーから眺めた建設中の近衛町。2階建ての西洋館は、南西側の鈴木邸のようだ。右は、1933年(昭和8)に撮影された低空飛行写真にみえる小林邸跡の海東邸。