再び、石井昌國の著作『古代刀と鉄の科学-増補版』(雄山閣)から引用してみよう。なお、カッコ内の注釈はすべて引用者が入れている。
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 (前略)その刃文が明らかに直刃(すぐは)調に焼き込まれるものがあり、中に流水刃(りゅうすいば)の一部が次第に凝縮されて、刃方で直刃になったものがある。またこれとは別に、箱乱れが進化して、のちの日本刀の村正(むらまさ)の刃(略)のように、箱刃と箱刃との中間をつなぐ直刃を取り入れて、直刃にした例もある。このような直刃は、七・八世紀の西国の切刃造り・カマス切先の大刀に見られる刃文と、沸(にえ)・匂(におい)の様式がかなり相違している。/地肌は、五世紀前半のものは大沢氏蔵の大刀に似て無地鉄となり、五世紀後半には板目を主体にし、六世紀に入ると、板目・杢目(もくめ)・柾気(まさけ)が混在して地沸(じにえ)が強くなり、六世紀後半には、柾目肌のものと山形の肌目のものとが現れ、それが次第に単調になってくる。また一方では綾杉肌(あやすぎはだ=のちの月山肌)が多くなり、板目肌とよく交わるものにもなっている。しかし、その刃はのたれ乱れとなり、直刃はないようである。 (同書「古代刀と鉄器の遺跡」より)
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 石井昌國の広い視野と深い研究成果にもとづけば、目白崖線から出土したバッケ刀は、地肌や刃文の様子から6世紀(501~600年)の前半あたりの作品ではないかと推測することができる。ちょうど、埼玉県の城戸野古墳(6世紀前半)や同県の生野山古墳群から出土した古墳刀に、きわめて近似している作品なのだ。同刀とバッケ刀の共通点は、それだけにとどまらない。重ね(刀身の厚み)の薄い平(ひら)造りであること、刃文が“のたれごころ”の中直(なかすぐ)刃、あるいはのたれ乱れを形成していること、焼き入れが小錵(こにえ)出来であること、全体的にやさしい刀姿であること・・・などなど、両作にあい通じる作刀技術を強く感じるのだ。もちろん、土取りによる焼き入れ技法はとうに確立されていたようで、刃取り(はどり=研磨の技術で刃がはっきり見えるよう研ぐこと)が容易な焼き刃の形成を確認できるのが、その証左だろう。
 
 
 埼玉県の城戸野古墳や生野山古墳群の刀は、もちろん古墳期における北武蔵勢力の有力者の腰に佩(は)かれていたものだろうが、南武蔵勢力に属していたと思われる平川(神田川)流域の古墳からも、よく似た刀が出土しているのは非常に興味深い。なぜなら、北武蔵勢力(埼玉=さきたま地域)と南武蔵勢力(東京・神奈川地域)とは6世紀に対立を繰り返していたとされており、ヤマト朝廷に親和的な北武蔵勢力を、さらに北側に位置する上毛野(かみぬけの=群馬・栃木地域)と南武蔵勢力とが同盟し、サンドイッチ状に制圧していたフシが見られるからだ。これは、北武蔵勢力のヤマト過剰依存と漸次衰退化の先に、「武蔵国造(こくぞう)の乱」Click!として噴出することになる。
 したがって、北武蔵勢力と南武蔵勢力との間で、刀剣(武器)の自由な輸出入が行われていたとは考えにくく、双方に同じような作刀技術の作品が出土するということは、専門家集団としての刀鍛冶村あるいは移動集団が形成され、当時から存在していた可能性が高いということになる。つまり、後世の戦国時代における美濃鍛冶(美濃伝)や堺の鉄砲鍛冶集団のような存在だ。戦うための実用刀である美濃伝の鍛冶たちは、需用さえあればどこの国でも、たとえそれが美濃とは敵対しそうな国であっても製品を販売していた。また、支配者たちは特殊技能の専門家集団を厚遇し、敵国内であっても彼らを攻撃することはまれだった。これと同じような状況が、古墳時代にもすでにありはしなかったか?・・・というのが、ひとつの仮説として成立しそうだ。

 神田川(旧・平川)の流域は、交易に有利な海のある地域へと進出したいがために、南下をもくろんでいたかもしれない北武蔵勢力と、対峙する南武蔵勢力との最前線であったかもしれず、「百八塚」の伝承や、膨大な古墳の存在を示唆する地名やミステリーサークルClick!の存在は、北武蔵勢力の南下を阻止するために張られた重要な防衛線、古代における南武蔵の「マジノライン」のひとつだったのかもしれない。そしてバッケ刀は、まさに防衛任務を行なう部隊の長(おさ)の腰に佩かれていた、刀のひと振りだったのではないか?
 その部隊は、おそらく大きな馬牧場(馬畦=めぐろ=目黒)から供給された坂東ならではの大規模な騎馬隊であり、流域から採集された川砂鉄をタタラ場や鍛冶場(中井鍛冶場遺跡Click!)で精錬し、良質な目白Click!(めじろ=鋼)をふんだんに使った刀剣で武装していたものだろう。

■写真上:バッケ刀の平地(ひらじ)で、板目肌が顕著な部分の拡大。
■写真中:上は、埼玉県の城戸野古墳(6世紀前半)から出土した大刀。流れ柾目の鍛えが中心で小錵がつき、刃文はゆったりとした中直(なかすぐ)あるいはのたれ刃を形成している。下は、同県の生野山古墳(6世紀)から出土した大刀類で、やはり流れ柾目に板目をまじえた鍛錬法だ。
■写真下:バッケ刀の茎(なかご)で少なくとも目釘穴が4つ、残存する目釘も含めて確認できる。