明治末から昭和初期まで、数多くの画家や小説家たちのパトロンとして、物心両面から支援Click!しつづけた今村繁三Click!は、1956年(昭和31)4月19日(木)の午前8時に下落合の自宅で死去した。直接の死因は胃がんだが、78歳の長寿をまっとうしている。
 今村繁三は今村銀行の頭取をはじめ、さまざまな事業家や経営者の顔をもつが、中村春二Click!や岩崎小弥太Click!とともに成蹊学園の創立者としても知られている。芝の高輪に豪壮な邸宅をかまえ、五間半×四間半(約10m×8m余)ほどの豪華なアトリエを建設して、自分でも好きな油絵を描いていた。ヨーロッパからシスレーやルノアールの作品を直輸入しては、画家たちに模写をさせたりもしている。病気で渡仏できない中村彝Click!が、庭を描いたルノアールの風景画を間近で模写できたのも、今村の存在があったからだ。
 今村繁三は、特に病気だった中村彝には気を配っていたらしく、人物画の女性モデル探しをいっしょに手伝ったりもしている。鈴木良三Click!が1977年(昭和52)に出版した、『中村彝の周辺』(中央公論美術出版)から引用してみよう。
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 高輪の城も明け渡して、吉祥寺の広い別荘に移り住むようになったが、その頃はまだ悠々たるもので、今村自身も油絵など描いて愉しんでいた。時々画家達を招いて、広い邸内で写生会など催していた。/吉祥寺へ移る前は若かったせいもあろうか、芸者遊びなどもよくやっていたので、彝さんのモデルを選ばせるつもりで、新橋あたりの料亭に十数名の芸妓を呼び、彝さんの好きな女を選ばせたが、どうも彝さんの気に入った人が居ず、趣味も合わず、ちっとも美しさを感じないし(裸にしたともいわれるが)、モデルになどなりそうもない体つきや、顔立ちなのであきらめたという話も伝わっている。 (同書「新宿中村屋時代」より)
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 頬が「ブンドウ色」で、野暮ったい「おさんどん」タイプの女性が好みClick!だった彝は、新橋芸者になんの魅力も感じなかったのだろう。
 
 今村銀行の経営悪化と、昭和初期の世界恐慌のあおりを受けて、今村の事業全体は急速に悪化していった。高輪の豪邸も売却し、吉祥寺にあった別荘へと転居するけれど、やがて戦争によって事業は決定的なダメージを受け、広大な別荘も手放すことになった。そして、彼は戦後、中村彝が住んでいた下落合へとやってくるのだ。
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 この他にも今村家には、その全盛時代に蒐められた数多くの、主として印象派の画家のいい絵が沢山あったが、みな散逸してしまった。勿論日本人画家の作も多くあったが、同様にどこかへ渡ってしまった。(中略)今村の晩年は不況のせいか、或は戦争のためか、吉祥寺の土地も、家屋も人手に渡り、落合の、今の聖母病院の下の方へ、小さいけれども、さすがに道楽者だけあって、瀟洒な住居を建てて移り住み、ここで病を得て大往生をとげた。 (同上)
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 この「聖母病院の下の方」の今村邸が、いったいどこなのかがずっと気がかりだった。でも、今村が死去した当日(1956年4月19日)の夕刊訃報を見て、ようやく住所がわかった。下落合2丁目707番地(現・中落合2丁目)、ちょうど徳川邸Click!のある東側斜面と、聖母坂にはさまれた一画だ。徳川邸に新邸が建てられ、「静観園」Click!が邸の北側から東側へと移された、その下あたりに今村の終の棲家は建っていた。現在の聖母坂沿い、JA全農たまごからHOYAガラス本社にかけ、その裏側敷地も含めた一帯が、1956年現在では下落合2丁目707番地にあたる。1960年(昭和35)に発行された「東京都全住宅案内帳」(住宅協会/人文社)によれば、徳川邸の「静観園」の面影はなく、斜面にはびっしりと住宅が建てこんでいるが、すでに「今村」の名前は見えない。彼の死去と同時に、今村家はどこかへ転居したものだろう。
 
 今村繁三の支援を受けた芸術家たちは、膨大な数にのぼる。中村彝の周辺にいた人たちだけでも、曾宮一念Click!、鶴田吾郎Click!、鈴木良三Click!、鈴木金平、野田半三、中原悌二郎Click!、満谷国四郎Click!などがいた。曾宮は支援にむくいるためか成蹊学園で教鞭をとり、教え子から田坂乾や近藤光紀などが輩出している。

■写真上:左は、下落合2丁目707番地の現状。右は、1925年(大正14)の自邸前の今村繁三。
■写真中:左は、1956年(昭和31)4月19日の「朝日新聞」夕刊より。明治・大正・昭和を通じての芸術界の大パトロンの死にしては、訃報の扱いが非常に小さく感じる。右は、中村彝が今村の所蔵するルノワールの風景画を、1920年(大正9)に模写したもの。
■写真下:左は、1960年(昭和35)の「東京都全住宅案内帳」。すでに、「今村」邸は見あたらない。右は、1963年(昭和38)に撮影された、聖母坂下のあたり。