この洋館を建設した、杉卯七という人物については少々悩ましい。『落合町誌』Click!が作成される1932年(昭和7)以前に、ここにはすでに住んでおらず転居していたらしい。ただし、1938年(昭和13)の「火保図」には「杉」という名前が採録されているので、借家として人に貸していた可能性は高いと思われるが、町誌に杉卯七の名前は見あたらない。わたしがうかがった地元の伝承Click!と、杉卯七という名前をたよりに調べられる記録とが、まるで一致しないのだ。ひょっとすると、同名異人の可能性はありそうな気もするのだが・・・。
 わたしがうかがった伝承とは、この家を建てた杉という人物は、東京帝大の医学部教授であり、将来の開業を意識(?)してか、13もの部屋のある家を近衛町に建設。しかも、その設計にはどこかでF.L.ライトClick!が関わっており、一時は帝国ホテルの作業員宿舎としても使われていた。でも、邸を建設して間もなく、子女の発病により転地療養を余儀なくされ、同邸は以降、賃貸物件としてしばらく活用されていたが、戦前に売却された・・・というものだった。この中で、邸の部屋数が13というのは、サンルームや広いホールまで含めるなら、建設当初の間取り図とどうやら一致する。
 もうひとつの大きな課題は、同邸は現存しているものの、本来の規模や意匠がそのまま保存されていない・・・ということだ。敷地全体の規模もそうだけれど、北に接する道路側から見て、屋敷の東側ウィングが大きく削られ、長く張り出した特徴的な屋根や、いかにもライト風デザインの窓や壁面を備えた各部屋がごっそり失われている。1926年(大正15)の「下落合事情明細図」では、おそらく敷地の広さとともに同邸は元の姿をしていたと思われるが、1938年(昭和13)の「火保図」では、すでに東側のウィングが大きく削られ、普通に見られる切妻の屋根と化している様子がわかる。つまり、屋敷の改造は昭和の初めから、10年前後の間に杉家自身の手によって行われているのだ。また、現在では庭に面した、いかにもライト風の屋根を持つ細長いウィングもなくなり、庭面積の多くが通常の屋根を備えた建物へと改築されている様子がうかがえる。

 同邸が下落合415番地に建設されたのは、1923年(大正12)の早い時期あるいは前年だと思われるが、同年8月に発行された『住宅』(住宅改良会)によれば、設計・施工は「あめりか屋」となっており、F.L.ライトの名前はどこにも出てこない。もっとも、来日したライトに描いてもらった簡単なスケッチを、あめりか屋に渡してそれをベースに設計・施工させたという可能性は否定できないのだが・・・。また、帝国ホテルは杉邸が完成した同年の9月に竣工するはずだったが、関東大震災Click!によって内部に大きなダメージを受け、その後も長期間にわたり修復作業がつづくことになるので、同ホテルの「作業員宿舎」として利用されたという伝承※も、杉家の人々が一家で転地していて賃貸物件だったとすれば、あながち矛盾しない。
※その後、杉様のご子孫である杉岳志様がわざわざ調査をしてくださり、大正期の同家にF.L.ライト関連の建築スタッフが宿泊した事実はないことが判明している。(詳細はコメント欄参照)
 1923年(大正12)の『住宅』8月号から、同邸の建設の様子を引用してみよう。
  ●
 社会問題に伴つた住宅問題のあらはれの歴史的事実として残されるべき邸宅開放といふことは、こゝ一両年彼方此方で見られましたが、目白の近衛町などはその代表的なものゝ一つでありませう。/杉邸は近衛町に新築されたものです。町と云ひながら、笹や雑草の深い処女地を拓かれたもので、邸の横にも庭にも数十年の杉の木が聳えてゐます。
                                                 (「杜の家―目白近衛町杉卯七氏邸―」より)
  ●
 
 問題は、杉卯七という人物像だ。名前をキーワードに資料を当たってみると、医者である「杉卯七」という人物はどこにも引っかからず、東京大学ポータルや医学部サイト、国会図書館などにも記録が残っていない。同名で頻出するのは、日本石油の社員であり新潟県の柏崎に勤務・居住していた人物だ。ちなみに、東大教授で日本フランス文学会の会長だった杉捷夫は、杉卯七の子息にあたる。新潟県刈羽郡石地村に本社を置いた日本石油は、同地周辺にさまざまな石油加工施設や工場を建設しているので、山口出身の杉卯七も同社の柏崎勤務となったものだろう。
 柏崎の資料では、1919年(大正8)現在で杉卯七を訪問した人の記録が残っているから、少なくともこの時点では新潟を動いてはいない。釣りが趣味だったらしい彼が、その後、数年で東京の下落合に家を建てるというのは、新潟に主要機能が集中していた日本石油の社員のままでは、ちょっと想定しづらい。それとも、1922年(大正11)に同社の柏崎製油所が閉鎖されているので、それを契機に、東京の有楽町にあった本社(1914年開設)勤務となったものだろうか?
 
 地元に残る伝承とともに、建築の過程やその後の経緯にはいろいろと謎が多い杉邸だけれど、同邸の建築当初の図面や間取り図、貴重な写真類が記録されたのは幸いだった。次回は、同邸の竣工間もない時期に撮影されたと思われる、美しい邸内写真を拝見してみよう。      <つづく>

■写真上:竣工から間もないと思われる、1923年(大正12)現在の杉卯七邸。
■写真中上:完成当初の杉邸側面図。当初のデザインは、現状とはかなり異なっている。
■写真中下:左は、旧・杉邸の現状。右は、1936年(昭和11)の空中写真にみる杉邸。すでに東側のウィングが大きく削られ、隣りに別の邸宅が建てられているが、南のウィングは当初のままだ。
■写真下:左は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる杉邸。右は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる杉邸。「火保図」は、実際の形状とはやや異なるように描かれている。