葛ヶ谷(西落合)の西のはずれ、野方との境のあたりに工場や研究所をかまえていたオリエンタル写真工業(株)は、1945年(昭和20)5月25日の空襲で第1工場とレンズ工場、付属の写真学校を爆撃された。でも、妙正寺川と四村橋ほはさんで西側(井上哲学堂Click!の南)にあった第2工場は、戦災をまぬがれて戦後も時計台を備えたシャレた外観の建物を目にすることができた。先日アップした織田一磨の描く『落合風景』Click!で、エムさんが目にされたのが戦後も長く建っていた、オリエンタル写真工業の第2工場だった。
 昭和初期の写真業界紙『日本写真興業通信』の創刊号には、オリエンタル写真工業の訪問記が掲載されている。1934年(昭和9)5月10日号の同紙(第1巻第1号)から引用してみよう。
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 西武電鉄新井薬師前駅より道を左に、軒をつらねる商店街を三四丁、目的の西落合の一角に建つ石造建築のオリエンタル工場へ着く、工場の搭上にはブリュー色も濃くPOICの社標あざやかに翻へる旗が眼に付く。近くの小高い丘には色とりどりの桜花が咲き乱れのどかな気分に引き入られる。(中略)/小橋の前にオリエンタル第二工場がある。近代的な石造建築で前の広場はフランス風な小公園とでも言ひたい庭園があり噴水を容してベンチ、花壇にとりかこまれて中々感じがよく美しい、小橋の向側に白い建物があるが、之れはオリエンタル写真学校で此処からは横向の姿体で見ゑる。/哲学堂へ通ずる坂道の右側には第二工場と此の坂道をはさんで、第一工場がある。オリエンタル会社第一工場の門標を右手に見ながら這入ると、オリエンタルパークと称する庭が細長く奧まで続いて居る。 (同紙「武蔵野の緑に映へる大白亜の化学殿堂」より)
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 オリエンタルが葛ヶ谷へ工場(第1工場)を建てたのは、1921年(大正10)のことだった。1934年(昭和9)のこの記事では、すでに葛ヶ谷ではなく、現在と同じ西落合と呼ばれる地域になっている。同社工場が操業を開始した大正期、葛ヶ谷一帯は東京府の風致地区に指定されていて、無節操な開発はできなかったはずだ。それでも、オリエンタルが同地へ進出できたのは、清廉な水ときれいな空気が化学工業には不可欠であることを、当局に強くアピールしつづけたものだろう。
 事実、風致地区を意識したのか、オリエンタルは工場の設備や外観にことさら気をつかっており、第1工場内には広い公園までが造成されていた。哲学堂の南にあり、少し遅れて建設された第2工場は、「遊楽園」という自然公園をつぶして建設されているが、やはり工場内に公園的なスペースを設けている。また、生産工場だけでなく、写真学校や研究所を併設したのも、風致地区への工場の建設認可を下りやすくするための施策だったろう。
 
 上記の訪問記にもあるように、武蔵野の面影が濃厚で「のどかな気分」を満喫できたのは操業開始から10年余で、昭和に入り戦時体制が濃厚になるにつれ、軍需産業としての色彩を濃くしていった。落合地区の住民たちも、西落合を中心に同工場へ通勤する人たちが少しずつ増えてくる。先の『日本写真興業通信』は、1939年(昭和14)には通算100号を迎えているが、同号を記念してオリエンタル写真工業の二代目社長・菊地久吉が原稿を寄せている。ちなみに、初代社長の菊地東洋は同年の4月に逝去している。1939年(昭和14)12月15日号から引用してみよう。
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 尚特に吾々写真工業が統制経済下に於て不自由なる現状を忍びつゝ、業界発展のため苦心経営し且つ生産拡充に努力しつゝある際、貴誌も亦我が写真界は単なる平和産業にあらずして、全ての有用工業軍事、学界等に必需品たる事を認識せしむる可き御努力を払はれ業界に御貢献あらんことを祈る。 (同紙「業界と共に歩め」より)
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 菊地社長が書いているように、写真技術はもはや「平和産業」ではなく、レンズ光学やフィルム製造技術は、国策にもとづく軍需産業そのものへと変貌していった。

 第1工場やレンズ工場を爆撃されたオリエンタル写真工業は、戦後も西落合で復興して第2工場を中心に操業をつづけていたが、1983年(昭和58)に御殿場へと移転している。現在、第2工場の跡地は、妙正寺川の地下遊水池とマンションの敷地になっている。

■写真上:左は、時計塔が印象的な第2工場。右は、工場跡地にある妙正寺川の遊水池(右手)。
■写真中上:左は、葛ヶ谷御霊神社の南側にあった第1工場。右は、第1工場(右手)前の道路から、妙正寺川や四村橋を越えた向こう側の第2工場(左手)を眺めたところ。
■写真中下:左は、1935年(昭和10)の「淀橋区詳細図」。右は、1947年(昭和22)の空中写真。
■写真下:1934年(昭和9)6月10日号に掲載された、同社のカラーフィルム広告。超高い!