大正末から昭和初期にかけ、東京近郊に展開していた“東京牧場”Click!は、東京市内から住宅地化の波が押し寄せるにつれて、より郊外へと移転するか廃業へ追いこまれるケースが増えてくる。また、面積が広い牧場の場合は、足りない住宅を供給するために、その一部を削って分譲宅地化が進められた。長崎町でも最大クラスの牧場だった「籾山牧場」も、その一部が分譲地として大正末に開発され、昭和初期に販売されている。
 分譲地開発といっても、籾山牧場の西側3分の1ほどが宅地造成されただけなので、残り3分の2はいまだ牧場のままだった。当時は、道1本はさんで牧場に隣接する分譲地だったわけで、目の前に牛舎や牧草地が拡がる、文字どおり東京とは思えない牧歌的な風情だったろう。住民は毎朝、新鮮なミルクが飲めたのかもしれない。
 1928年(昭和3)に印刷された、「籾山分譲地」の販促パンフレットが残っている。籾山牧場は、目白へと出られる清戸道(現・通称「バス通り」)に面していたので、山手線方面へ直接出るには「文化村」Click!停留所を経由して目白駅へと向かう乗合自動車か、または武蔵野鉄道線の東長崎駅から池袋駅へと出るルートを利用したのだろう。
 
 豊島区が発行した『長崎村物語-江戸近郊農村の伝承文化-』(1996年)に掲載されている、「籾山分譲地」パンフレットのコピー(広告文)を引用してみよう。
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 交通 東及南向ニシテ日当ヨク眺望佳/武蔵野電車東長崎駅ヨリ徒歩約五分
  目白駅ヨリ乗合自動車の便アリ
 設備 各宅地ハ二間半又ハ二間の舗装道路並ニコンクリート下水ノ設備中
  瓦斯、水道及電気ノ便アリ/直グ建築ニカゝ○レマス (同パンフレットより)
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 パンフレットに掲載された分譲地割り図には、すでに売約済みの印がいくつか押してあるので、土地の売り出しは開発中の大正末ごろから、おそらくはじまっていたのかもしれない。敷地の面積は、150坪ぐらいから500坪までといろいろだったようだ。清戸道沿いには千川上水の分水が流れ、それが直角に牧場内を貫いて、葛ヶ谷(西落合)方面へと流れていた。(葛ヶ谷分水/落合分水)
 
 
 昭和初期の古いお屋敷が残っていないかと、さっそく籾山牧場跡を訪ねてみる。この籾山牧場の近く、東南東の敷地には「足立牧場」も営業していたが、「安達牧場」Click!のように牛乳販売の看板が残っているわけでもなく、いまや牧場の痕跡は皆無だ。付近はふつうの住宅街なのだが、ところどころに古い邸宅が見え、特に籾山分譲地には昭和初期に建てられたとみられる大きな西洋館が残っていた。また、分譲地内には2軒分の、それぞれ150坪と500坪ほどの大きな更地があったので、もう少し早く訪ねれば当初に建てられたお屋敷を見ることができたのだろう。
 1936年(昭和11)の空中写真を見ると、籾山牧場は健在で多くの牧舎を確認することができる。籾山分譲地の住民は、きっと牛の鳴き声と、ミルクを運ぶクルマの音で目がさめたのだろう。牧場で草を食む牛を眺めながら、東京市内へと出勤する人たちが大勢住んでいたはずだ。ときに、籾山牧場は近所の住民たちを招待し、「ミルク絞り体験会」とか「牛と仲よしになる会」とか(^^;、なにかの催しがあったのかもしれない。
 
 でも、分譲パンフレットには籾山牧場のことが触れられていないところをみると、分譲地の“売り文句”にはならなかったのかもしれない。上落合の「牧成社牧場」のケースと同様に、やはり“東京牧場”Click!の臭気が、当時から各地の住宅街で問題化していたのだろうか?

■写真上:左は、籾山分譲地に残る西洋館。右は、1947年(昭和22)の同住宅地の全貌。
■写真中上:左は、1928年(昭和3)の籾山分譲地パンフレット。右は、同パンフの分譲地割り図。
■写真中下:上左は、1926年(大正15)の「長崎町事情明細図」。上右と下は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる、それぞれ籾山牧場、足立牧場、安達牧場あたり。
■写真下:左は、籾山牧場あたりの二間半道路の現状。右は、足立牧場跡の現状。