いつも、洋画家のアトリエばかり紹介しているが、目白・下落合界隈には、実は日本画家もたくさん住んでいた。洋画家のアトリエは、あちこち何度か訪れて見せていただいているけれど、日本画家のアトリエは目白文化村Click!の第一文化村に住んで創作していた、渡辺玉花邸の画室を見せていただいたのが唯一の経験だ。洋画家の画室と同様に、大きなサイズの作品を仕上げ外へと運び出せるよう、天井の高さや搬出口を考慮した特別な設計仕様となっていた。
 今回ご紹介するのは、目白・下落合界隈ではなく、広い畑地の真ん中で邸内に多摩川の玉砂利を使ったと書いてあるので、おそらく世田谷のほうだと思われるが、大正末か昭和初期に建てられた画室付きのめずらしい日本住宅だ。主婦之友社が1929年(昭和4)に出版した、『中流和洋住宅集』(主婦之友社編集局・編)に収録され、日本画家のアトリエ付き邸宅として紹介されている。同社が「主婦之友」に連載してきた、「実用的で住心地よい中流住宅」のおもな記事をまとめ同年に出版しているので、実際に建設されたのは大正末の可能性もある。同書に掲載されている吉屋信子邸Click!は、1926年(大正15)に竣工していたはずだ。
 
 この邸宅で面白いのは、15畳の画室が北を向かず、応接室と並び庭に面して真南を向いていることだ。しかも、採光窓が南と東側に設置されている。間取りの様子から、この邸の画家は結婚をしておらず、家族がいなかったように思われる。居間・食堂と客間以外の部屋は、ふたつとも書生部屋と女中部屋に当てられていた。同書から、画室の様子を引用してみよう。
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 この家は、主人が、日本画家なので、別に、十五畳の画室を設けました。この十五畳の室は、南側が二間の硝子戸になつてをり、その外に一尺の濡縁がついてをります。
 東側も全部硝子戸になり、南側と東側の硝子戸の上部は、更に一尺の硝子が嵌まつて、光取りとなつてゐますから、採光の点は申分ありません。西側は、一面の壁になつてゐます。北側の一隅が一間の押入、その隣が、廊下に通じる三尺の開戸になつてゐます。
 上段も四尺と三尺五寸で、硝子戸四枚の開戸になり、その中に神棚を設けてあります。(中略)これは、必ずしも画室でなくとも、洋風にして、応接室にしましてもよく、また、その他の室にも用ひられるのであります。 (同書「三十一坪の風雅な日本住宅」より)
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 南の庭から撮影された画室の様子をみると、1尺の採光窓が上下にかなりの余裕をもって嵌められているのが見てとれるので、1階建ての平屋住宅とはいえ、天井がかなり高く造られているのがわかる。画室の東南側を、すべて大きなガラス戸にしているのは、やはり大きなサイズの作品搬出を考慮してのことだろう。また、門から玄関が直接見通せる造りではなく、前の道路からは玄関脇に設置された茶筌垣(ちゃせんがき)しか見えない設計となっている。
 画室のイラストをよく見ると、東南アジアのお面のようなものや、沖縄のシーサーを描いたと思われる額が架かっているのが見える。また、客間には掛け軸と並んで、インドネシアの獅子像のような置物も見えるので、このようなアジアの神話に登場するポリネシア系の神獣たちに興味を持ち、好んでモチーフにしていた日本画家だろうか。
 
 比較的コンパクトな住宅にもかかわらず、居間につづいて3畳の食堂があるのもめずらしい。日本家屋なので、あえて食堂とは呼ばず、主人は「食事場」と名づけていたようだ。先の写真には、濡れ縁に2枚重ねて敷かれた座布団の上に、チンのような犬が1匹座っている。ひょっとすると、この家の日本画家は女性なのかもしれない。

■写真上:日本画家の邸を南の庭から眺めたところで、左側の犬が座る濡れ縁が画室。
■写真中上:左は、門前から邸を見たところだが玄関は見えない。右は、同邸の間取り図。
■写真中下:左は画室で、右が客間。卓上に団扇が見えるので、取材は夏だったのだろう。
■写真下:左は玄関で、右が居間。居間の鴨居には、鯉が描かれた額が見える。