上野の不忍池界隈を散策すると、いつも懐かしい想いがこみあげてくる。それは、“場”のもつ匂いとでもいうものだろうか。周辺の景観はずいぶん変わっているのに、不忍池の水面に反射する光と、淡水特有の生臭い匂いをかぐと、とたんに子供時代の情景をあれこれ思い出すことになる。上野というと、山の上の動物園や寛永寺よりも、不忍池の印象のほうがはるかに強烈なのだ。それは、何度かボートに乗って池の水に触れているせいもあるのかもしれない。
 昔から、この池には神田のお玉ヶ池Click!と同様に、ずいぶんと身投げが多かったようだ。戦後はヘドロの堆積で、水深がどんどん浅くなってきているようだけれど、江戸期の不忍池はかなりの深かったのだろう。ただし、岸辺はやはり浅いので、飛びこんでも失敗する事例が多かったと思われる。銀座の天ぷら屋「天金」の息子に生まれた池田大伍が、いまではあまり舞台を見かけない新歌舞伎『男達ばやり(おとこだてばやり)』で、老人を身投げさせたのも、弁天堂がほど近い不忍池だった。たまたま、近くを通りかかった町奴(まちやっこ)の朝比奈三郎兵衛に助けられるのだが、そのあと、やはり通りかかった“よしや組”頭領の旗本・三浦小次郎と、老人の救い方をめぐって意地の張り合いが起きてしまう・・・という、中村勘三郎が得意としていた喜劇だ。かんじんの老人をそっちのけにして、江戸の“伊達者”たちのケンカを題材にした、元禄時代ならではの趣向。
 
 同じように、不忍池をめぐる芝居には喜劇っぽい設定が多い。河竹黙阿弥Click!の『黒手組曲輪達引(くろてぐみ・くるわのたてひき)』(通称:黒手組助六)にも、人が落ちる不忍池が登場する。清元の「白玉」が流れる中、新吉原の三浦屋・白玉と牛若伝次が道行(みちゆき)する場面だ。あとを追いかけてきた三浦屋の番頭・権九郎は、店からちょろまかしてきたカネを伝次に取り上げられ、あげくのはてに不忍池へ突き落とされてしまう。荒筋だけ追っていると別に面白くもなんともないけれど、実は番頭の権九郎がチャリ(道化役)なのだ。池へ落ちた権九郎は、蓮の葉を頭にかぶってみせたり、鼻の穴からニョロニョロ“どぜう”を出してみたりと、そらっとぼけていておかしい。
 もうひとつ、喜劇ではないが同じく黙阿弥の作品で、江戸期ではなく明治期の設定になっているザンギリ芝居『霜夜鐘十字辻筮(しもよのかね・じゅうじのつじうら)』(通称:袴腰)にも、あんまの宗庵と天狗小僧が出会う場所として、不忍池の岸辺が登場している。この芝居も、本郷が舞台で名所案内のような「加賀鳶」Click!と同様に、今度は上野の名所めぐりのような展開となっている。不忍池をはじめ、芋坂、下谷広小路(上野広小路)の三枚橋、車坂、忍ヶ岡、根岸、入谷・・・と、まるで散歩コースを紹介しているかのようだ。
 
 芝居や小説を読んでいると、どうやら不忍池は出会いの場所、逢瀬のお約束ポイントとして設定されている場合が多いようだ。いきずりの出会いもあれば、恋人たちの待ち合わせの場所として、あるいは湯島天神Click!ともどもデートコースとしても頻繁に登場してくる。不忍池は、不特定多数の人々が出会い、その想いがさまざまに交叉する公的な「広場」・・・ならぬ、きわめて日本らしく水臭い匂いがする池の端なのが面白い。両国橋Click!から大川へざんぶと身投げをすれば、まず流されて助からないだろうが、不忍池なら助かる確率が非常に高くなる。池に身投げをすることさえ、未知の人との新たなコミュニケーションを産む手段だった・・・とも、言えるのかもしれない。
 池の真ん中にある弁財天は、人々が集う出会いのコアな地点だったろう。池の周囲をめぐると12町といわれる不忍池だが、江戸期に埋め立てられて造られた人工島に建つ弁天堂は、きっと300年ほど前から明治期まで、渋谷の“ハチ公前”や八重洲の“銀の鈴”だったにちがいない。太平洋戦争がはじまると、池の一部は水が抜かれて水田になり(その後、旧姿に復元された)、戦後はぜんぶ埋め立てて野球場にしよう・・・などというオバカな計画Click!も出たようだが、東京じゅうの強烈な抵抗・反対にあって頓挫している。
 
 岸辺を散歩していると、数多くの物語が眠っているせいか、池の周囲には記念碑があちこちに建立されている。記念碑や記念プレートめぐりをするだけでも、けっこうな時間がかかるだろう。中でも長谷川利行Click!の碑がめずらしいのだが、わたしはいまだに見逃している。

■写真上:蓮の池から眺めた不忍池の景観で、中央が弁天堂で右が上野精養軒。
■写真中上:左は、子供のころを思い出す懐かしいボート池。右は、1953年(昭和28)の同所。
■写真中下:左は、池田大伍『男達ばやり』の舞台で先代・中村勘三郎の三浦小次郎(右)と、8代目を襲名したばかりの松本幸四郎の朝比奈三郎兵衛(左)。右は、池の中央にある弁天堂。
■写真下:上野精養軒から眺めた不忍池の北側で、真下に見えるのは鵜の池。