医者で画家というと、下落合では洋画家・鈴木良三Click!がすぐに思い浮かぶけれど、医者で文学者というと、下落合では五ノ坂上(現・中落合2丁目)に住んでいた古屋芳雄Click!の名前がすぐに浮かぶ。岸田劉生の肖像画に描かれた、『古屋君の肖像(草持てる男の肖像)』(1916年・大正5)のモデルClick!としても有名な人物だ。昔から、森鴎外や斎藤茂吉、正木不如丘、小酒井不木など医者をしながら、片や文学界に身を置いていた人は多い。
 古屋芳雄は、1921年(大正10)に出版されたベルハーレン・著の『レムブラント』(岩波書店)の翻訳でも知られているが、小説『暗夜(やみよ)』(1920年・大正9)や『地を嗣ぐ者』(1921年・大正10)がベストセラーになった小説家でもある。今日では、ほとんど復刻版を見ないけれど、キリスト教的な精神主義にもとづくそれらの物語は、当時の多感な男女たちを虜にした。いまのカテゴリーでいえば、「青春小説」ジャンルに分類されるような作品だったのだろう。わたしは残念ながら、彼の小説をいまだ読んだことがない。
 医業が忙しくなったのか、古屋は大正期に数編の小説を書いたあと、突然執筆を中断している。1926年(大正15)に医学博士号を取得しているので、学位論文を仕上げるのに忙殺されていたのかもしれない。このころの彼は、千葉医科大学の教授と東京医学専門学校(医専)の講師をかけ持ちする、超多忙な日々を送っていた。その合い間に、研究と論文執筆をつづけていたのだろうから、とても小説まで手がまわらなかったようだ。勤務先が千葉市なので、下落合から毎日通うのはとんでもなくたいへんだったろう。現在なら、すぐに単身赴任を考えるのだろうが、古屋芳雄は3人の子供たちの顔を見られなくなるのがイヤだったらしい。
 
 1927年(昭和2)に発行された『婦人倶楽部』11月号には、雪子夫人へのインタビューが掲載されている。毎日、早朝に出勤し深夜に帰宅する夫を見かねた夫人は、単身赴任を強く勧めたようだ。
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 博士は千葉医科大学の教授たると共に東京医専をもかけ持といふお忙しい躰、ところが自宅は東京郊外の辺鄙な下落合にあるので不便この上もない。しかし種種な事情のため下落合を引払ふ訳にも行かないで、博士にとつては大学附近に単身別居された方が一番便利なことになるのであるが、人も知る博士は人一倍慈愛深いパパであるので、三人の子供と離れることは想像以上の苦痛であつたに相違ありますまい。この博士の学究と情愛のきづなのため仕事なり研究の上に少なからぬ支障と不便の生じつゝあることをこの上もなく残念に思はれたのは雪子夫人であつたのです。
                                   (同誌「古屋医学博士と雪子夫人」より)
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 こうして数年間にわたり、古屋芳雄は千葉へ単身赴任して仕事に没頭することになる。その間、先の博士論文を執筆していたのだろう。雪子夫人は子煩悩な夫の姿を見て、このままでは仕事に集中できない・・・と、思い切って千葉赴任を夫に進言したにちがいない。「子供たちは私が代つて立派に教育をしますから、不自由ではありませうが千葉の方で適当な家をお借りになつて宿年の研究を完成して下さい」と言って、夫を千葉へ送り出している。
 また、3人の子供たちについては、「学校は近所の村の学校へ通はせて居ります。先生さへ立派な方であれば学校はどんな処でも好いと思ひます」と、記者のインタビューに答えている。この「近所の村の学校」とは、落合小学校(現・落合第一小学校)のことだろう。このとき、すでに落合町と町制が敷かれていたにもかかわらず、佐伯祐三Click!や長野新一Click!と同様に、アビラ村(芸術村)Click!に住んでいた彼女も、一帯を「村」と表現している点に注意したい。昭和に入ってからも、「落合村」という長年親しんだ呼称が活きていたのがわかる。

 雪子夫人が、『婦人倶楽部』編集部のインタビューを受けた1927年(昭和2)の秋、古屋芳雄は千葉医科大学の留学生としてパリへ留学の真っ最中だった。パリからの手紙を引用してみよう。
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 パパーは巴里に着いた。気持ちのいい都です。空気があまり乾いてゐないので日本とよく似た時候です。パパーは疲れてゐるので暫くこゝにゐるつもりです。時々旅行するかも知れないが、マロニエの並木が鬱蒼として、磨いたやうに美しい。パリーの町にはゴミ一つ落ちてゐない。光の町流行の町。そして歴史の町。世界ぢうで一番いゝ所でせう。パパーは毎日元気で見物に忙しい。ナポレオンの墓にまゐつた時、曉ちやんのエンピツを買つたから、六さんのと一緒にそのうちに送る。
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 手紙の文面からも、ひときわ子煩悩な古屋パパーの姿が透けて見えてくる。この年の秋、パリにはもうひとり愛娘を連れた下落合の佐伯祐三パパーがいたはずなのだが、いまのところ現地でふたりが出会った形跡はみられない。

■写真上:左は、『婦人倶楽部』記者の取材を受けた雪子夫人。右は、現在の古屋邸。
■写真中:左は、昭和初期の古屋芳雄。右は、1916年(大正5)制作の岸田劉生『古屋君の肖像(草持てる男の肖像)』で、いま東京国立近代美術館でちょうど入れ替え常設展示がされている。写真は、絵が描かれてから10年後のポートレートだが、肖像画の面影が残っている。
■写真下:こちらは、五ノ坂の古屋邸の南に屋敷があった林唯一Click!のめずらしい家族写真。1935年(昭和10)の『婦人倶楽部』12月号掲載のもので、テラスの先にあった噴水の前にて。