湘南電車(東海道線)に乗って保土ヶ谷のトンネルを通り抜け、大船駅をすぎるあたりから、全身が弛緩して精神的にも穏やかになっていくのがわかる。潮の香りがはっきりと感じられる藤沢をすぎると、顔つきまでが変わってくるのだそうだ。「東京にいるときと顔つきが違う」とは、家族や友人たちからよく言われること。そう、子供のころ遊んだ“庭”へ帰ってきたような気がするのだ。
 東京の日本橋や隅田川界隈、また鎌倉でも同様のリラックス効果が表れるようだけれど、湘南海岸の比ではない。茅ヶ崎をすぎて、やがて大磯の丸みを帯びた穏やかな輪郭の高麗山や湘南平の山並みが見えはじめると、もう肉体的にも精神的にも完全に弛緩状態となる。北には大山・丹沢山塊が見え、箱根・足柄連山の向こうには、東京で見るのとサイズがまったく異なる、大きくて真っ白な富士山がのぞいている。房総半島の先端から三浦半島、江ノ島、烏帽子岩、伊豆大島、真鶴半島、初島、そして伊豆半島と一望のもとに見わたせる湘南海岸の真んまん中は、わたしが物心つくころから網膜に焼きつけられた原風景だ。
 平塚の駅舎はとんでもなく大きくなったけれど、大磯駅の駅舎はまったく変わらない。おそらく、箱根土地(株)建築部Click!の仕事だろう。このサイトの目白文化村Click!でおなじみの堤家は、いまでも大磯に住んでいる。駅から一気に「こゆるぎの浜」まで下ると、そこには昔とまったく変わらない風景が広がっている。この渚沿いの北浜海岸では、1月に江戸東京でいう“どんど焼き”が行なわれる。大磯では「左義長(さぎちょう)」と呼ばれて、国の重要無形民俗文化財にも指定されている行事だ。(東京でもそう呼ぶ地域がある) その形態は、東京の“どんど焼き”とまったく同じだ。
 ちなみに、“どんど焼き”は東京弁の下町Click!言葉(中でも日本橋/神田/浅草界隈に限定?)では、現在ではほとんどつかわれないけれど、お好み焼きのことも指している。いろいろな具を入れ、鉄板の上に盛りあげて焼くところが、どんど焼き=左義長にそっくりだったからだろう。乃手では、いまも昔もつかわれなかった言葉のひとつだ。北浜で催された左義長を見物した島崎藤村は、温暖で風光明媚な大磯を終の棲家に選んでいる。
 
 
 こゆるぎの浜を西に向かって歩くと、すぐに西行の三夕の歌でも知られる鴫立沢(しぎたっさわ)の小流れにぶつかるが、そこにあまれた俳諧の庵「鴫立庵(でんりゅうあん)」※が見えてくる。鴫立庵は、小田原の僧で俳人でもあった崇雪が1664年(寛文4)に建立して、いまは日本三大俳諧道場のひとつとなっている。この崇雪という人は、湘南地方ではもっとも重要な人物だ。そう、そもそも相模湾の海岸風景を「湘南」と呼称したのは、資料でたどれる限りこの江戸初期に生きた崇雪が最初だからだ。現在でも「看盡湘南清絶地」と刻まれた石碑が、鴫立庵に残されている。
 ※読み方が難解だったせいか、いまでは「しぎたつあん」と呼ばれることが多いようだけれど、わたしが子供のころ、地元の人たちはたいがい「でんりゅうあん」と呼んでいた。
 親父や母方の祖父Click!が好きで、わたしを連れてよく鴫立庵には立ち寄ったが、萱葺き屋根の瀟洒な庵は、いまも昔も変わらない。鴫立庵から少し西へ歩くと、道路の北側に島崎藤村の自宅がそのまま残っている。「大磯は温暖の地にて身を養うによし」と、当時足を悪くしていた藤村は、妻・静子にあてた1941年(昭和16)2月28日付けの手紙で次のように書いている。
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 昨日午後
 例の天明さんより貰った草履をはき
 志ぎ立沢まで歩き
 久しぶりで好い散歩をしました。
 砂の歩き心地も実によかった。
 この調子では足も達者にならうと楽しみに思はれる。
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 佐伯祐三Click!の大磯における避暑宅Click!の、すぐ近くにお住まいのさいれんとさんClick!より、クリスマスの装いとなったエリザベス・サンダースホームClick!(旧・岩崎弥太郎別邸)の冒頭に掲載した写真と、めずらしい資料をお送りいただいた。1957年(昭和32)に朝日新聞のカメラマンだった影山光洋によって撮影された、ホームの子供たちの写真は貴重だ。のちに撮影されたカラー写真を参考にして、さいれんとさんがモノクロ写真に着色されている。
 赤に白いストライプが入ったセーターは、当時の阪神タイガースに在籍していた若林選手が、子供たちへプレゼントしたお揃いのセーターらしいとのこと。撮影場所は、ホームの南側にある本館近くのキリシタン美術館あたりで、背後に写っている建物が当時は教会として使われていた岩崎別邸の茶室、現在のキリシタン美術館が建っている位置にあたる。

 
 北側に屏風のような山を背負っているため、冬は東京より4~5℃も暖かく、夏は逆に太平洋からの海風で東京よりも4~5℃は涼しい、日本初の本格的な別荘地・大磯Click!は、親父や祖父の世代以前の明治初期から、鎌倉とともに東京人あこがれの土地なのだ。ちょっと見栄っぱりだったらしい佐伯米子が、他の新しい別荘地ではなく大磯へ避暑に行くことを承諾したのも(ひょっとすると本人が言い出したのかもしれないが)、どこかわかるような気がする。
 でも、当時から地価はかなり高騰していたらしく(ヘタをすると地域によっては鎌倉よりも高いかもしれない)、父方の祖父にはおよそ手が出なかったのだろう、大磯からさらに西へ35kmも離れたところに、ささやかでいじましい別荘Click!を建てては、ひとりで喜んでいたようだ。

■写真上:クリスマスの飾りつけを終えた、エリザベス・サンダースホーム(旧・岩崎別邸)の正門。
■写真中上:上左は、国立駅Click!のデザインによく似た昔のままの大磯駅。上右は、1925年(大正14)に撮影された二代目・平塚駅。下は、こゆるぎの浜の渚で伊豆半島の天城山が見えている。
■写真中下:上は、鴫立沢の畔に崇雪によってあまれた鴫立庵。下は、島崎藤村邸とその書斎。
■写真下:上は、1957年(昭和32)に撮影されたエリザベス・サンダースホームの子供たちで、背後に見えているのは旧・岩崎別邸の茶室。下は、旧・伊藤博文別邸(左)と旧・池田別邸(右)。伊藤邸は一時期薩摩治郎八Click!の別荘となり、戦後は中華レストラン「滄浪閣」になって、わたしも子供のころ親に連れられてよく食べに出かけたけれど、昨年閉店してしまったのはちょっと惜しい。
※その後、大磯にお住まいのSILENTさんより、薩摩治郎八が購入した別荘は「伊藤博文の別荘」ではなく、滄浪閣から北北西へ500mほどの位置にある「伊藤博文の母の別荘」であることをご教示いただいた。