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鈴木良三が垣間見た佐伯祐三。 [気になる下落合]

曾宮一念鈴木良三1955.jpg
 中村彝Click!に兄事し、戦後は中村彝会の会長を長くつとめた鈴木良三Click!が、佐伯祐三Click!と出会ったのは関東大震災前の1922年(大正11)のころだった。佐伯はいまだ東京美術学校の学生であり、同年の1月に池田米子と結婚したばかりで、下落合へアトリエを建てて間もないときだ。中村彝のアトリエClick!へしじゅう出入りしていた鈴木が、なぜ佐伯アトリエを訪ねることになったのかといえば、洋画家・曾宮一念Click!がわざわざ紹介したからだ。
 曾宮一念は、下落合とその周辺に住む画家たち同士の交流をたいせつに考えていたらしく、まるで目白・下落合界隈を舞台にした、“狂言まわし役”のような存在となっている。表現のフィールドや派閥、師弟関係、学閥などの垣根を超えた芸術家同士のネットワークは、いかにも体裁にこだわらない東京下町の出身Click!らしい曾宮による功績が非常に大きい。鈴木良三も旧知だったらしい、東京美術学校で講師をしていた森田亀之助邸Click!(これも曾宮が紹介したのだろう)の近くを歩きながら、曾宮とともに佐伯アトリエを訪れた記録が残っている。1999年(平成11)に出版された、梶山公平・編の『芸術無限に生きて-鈴木良三遺稿集-』(木耳社)から引用してみよう。
  
 森田さんのところから少し行ったところに佐伯君のアトリエがあった。今の聖母病院の入口の横の方で、最初私は曽宮さんに連れられて彼を訪ねた。彼が美校在学中だったか、卒業して間もない頃だったろう。あれは裏庭だったと思うが、彼は一生懸命材木にカンナをかけていた。建て増しか、新築か知らないが、そこの柱にする材料を削っているところだった。私達はニ、三分立ち話をして邪魔になると思い退去したが、これが最初で最後の出会いである。/その時の第一印象は痩せた精悍な感じだった。まだ有名にならぬころだったが、中村彝さんを尊敬しているふうだった。米子さんも出てこなかったが、アトリエなど遠慮して見せて貰わなかったが地所は彝さんや曽宮さんのところより広いようだった。 (同書「目白のバルビゾン」より)
  
 これだけ下落合の画家同士を会わせている曾宮のことだから、中村彝のところへ佐伯をすぐに連れて行きそうなものだけれど、彼の証言ではそのような事実はなかったと否定している。曾宮は一度誘いはしたが、佐伯が行きたがらない様子を見せたらしいので、すでに表現的な興味が薄らぎはじめていたころのことかもしれない。
佐伯アトリエ2008.JPG 曾宮アトリエ跡.JPG
 佐伯の第2次渡仏時に、鈴木良三もパリやクラマールに滞在していたのだけれど、ふたりはついぞ出会わなかった。鈴木は、NHKドラマ『襤褸と宝石』Click!について、佐伯米子はよく描かれていて「日本で会った時匂った香水のかおりまで感じられた」としているが、佐伯祐三については「燃えるような気迫で風景を描くには物足りなかった」と書いている。もっとも、佐伯が仕事をしている様子を一度も見たことがないはずなので、知り合いの曾宮や洋画家・山田新一Click!など話を聞いたうえでの判断なのだろう。
 もうひとつ、佐伯祐三について鈴木は気になる言葉を書き残している。「なお、佐伯君については、彼の親友山田新一君が本当のことを詳しく書いているので(『佐伯祐三』)、私の知っているだけを、感じたままをここに記した次第」と、エッセイを結んでいる点だ。なぜ、このような持ってまわった書き方をしているのだろうか? ここで、「本当のことを詳しく書いている」という言葉が非常にひっかかる。つまり、うがった読み方をすれば、巷間にあまた存在する佐伯の「伝説化」した話は「ウソ」が多く、ほんとうの佐伯の姿は山田新一が記録している・・・ともとれる表現なのだ。連れ合いだった佐伯米子をはじめ、死後に「友だちのひとりから親友」になったような気配のある北野中学で同級だった阪本勝Click!や、そのほか佐伯を崇拝する人々が残している文章は、美化、粉飾、誇張、想像などに満ちている・・・とでもいうのだろうか。
 鈴木良三は、のちに佐伯の作品を真摯に見つめながら、その表現を大きく評価している。中村彝の周辺にいた画家で曾宮一念を除けば、佐伯を高く評価している画家はめずらしい。
  
 ルクサンブールのマロニエの枯れた並木を描いているが、私も同じ場所を初秋の黄葉し始めたころを描いて、彼の筆力のすごいのに感心している。彼は二十号以上の大作をあまりしなかったようだが、その数は短い生涯のうちに大した収穫であったことに敬意を表せざるを得ない。 (同上)
  
患者後送と救護班の苦心1943.JPG 渦(鳴門)1962.jpg
 また、鈴木は曾宮一念が下落合界隈に住むさまざまな芸術仲間の間を連れ歩いてくれたり、作品のモチーフになりそうなところへ散歩に連れ出してくれた様子も記している。
  
 そんな中で曽宮君は親切にぼくを導いてくれて、会津八一Click!さんや、寺内万次郎、耳野卯三郎、鈴木保徳、遠山教円、山口大蔵といった人達のところへ連れて行ってくれたり、川端画学校へ一緒にデッサンの勉強に通ったり、散歩はいつもぼくを連れて武蔵野を歩き、いろいろな歌なども教えてくれた。 (同上)
  
 鈴木良三は、鶴田吾郎が『初秋』Click!に曾宮一念ともども描き、佐伯祐三が『セメントの坪(ヘイ)』Click!の画面左隅にチラリと描いた曾宮アトリエClick!についても詳しく書き残している。曾宮は、下落合をめぐる画家たちのキーマン的な存在なので、次の機会にぜひご紹介したい。

■写真上:1955年(昭和30)ごろに撮影された、曾宮一念(手前)と鈴木良三(奧)。
■写真中は、佐伯祐三アトリエを母屋があった南側から。左手の小さな建屋が佐伯の大工仕事で増築した部分で、曾宮一念も壁塗りClick!を手伝わされている。は、曾宮アトリエの跡。
■写真下は、いまちょうど東京国立近代美術館に展示中の、1943年(昭和18)に描かれた鈴木良三『患者後送と救護班の苦心』。は、1962年(昭和37)制作の鈴木良三『渦(鳴門)』。


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ChinchikoPapa

確かに、このアルバムへ誰かの「Light as a Feather」というタイトルをもってきてもいいかもしれませんね。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2008-12-14 19:36) 

ChinchikoPapa

最勝寺の不動堂のデザインは、均整がとれていて美しいですね。
nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-12-14 19:42) 

ChinchikoPapa

ネガを見つづけたあとのポジは、白いスペースばかりでなく黒いテクスチャーの部分にも現れますね。nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2008-12-14 19:45) 

ChinchikoPapa

わたしは1月の生まれなのですが、正月の“めでたさ”が終ったあとの脱力状態の中、たいがい忘れられる運命にあります。w nice!をありがとうございました。>まるまるさん
by ChinchikoPapa (2008-12-15 13:15) 

ChinchikoPapa

わたしは神奈川県の海辺で育ったのですが、カモメよりアオバトのほうが多かったです。nice!をありがとうございました。>西尾征紀さん
by ChinchikoPapa (2008-12-15 14:26) 

ChinchikoPapa

冬の京都は、南関東育ちのわたしには過酷で、ほとんど一二度しか行ったことがありません。nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
by ChinchikoPapa (2008-12-15 14:55) 

ChinchikoPapa

すてきなクリスマスカードですね、とてもシックです。
nice!をありがとうございました。>翠川与志木さん
by ChinchikoPapa (2008-12-15 14:58) 

ChinchikoPapa

にこごりやテリーヌ系が好物なんですよ。^^
nice!をありがとうございました。>shinさん
by ChinchikoPapa (2008-12-15 19:44) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>kakasisannpoさん
by ChinchikoPapa (2008-12-16 22:41) 

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