8月の記事Click!で、旧・下落合1丁目360番地(現・下落合3丁目)に住んでいた丸美屋(ミツワ石鹸Click!)の衣笠静夫のもとへ、長谷川利行Click!がやってきたように書いてしまった。その直後に、記事中へ急いで訂正を入れておいたけれど、衣笠静夫が下落合の丸美屋社主だった三代目・三輪善兵衛邸Click!(旧・下落合1丁目350番地)の離れ家に住むようになるのは、戦時中に軍の民需事業の一環で派遣されていたシンガポールから帰還したあと、1946年(昭和21)3月ごろからのこと。したがって、1940年(昭和15)に死去している長谷川利行は、下落合の南側の戸塚町にあった片想い相手の藤川栄子Click!アトリエは訪ねたかもしれないけれど、「下落合の衣笠邸」を訪問できるわけがないのだ。
 戦前の衣笠邸は、西巣鴨町大字池袋字大原(現・池袋3丁目界隈)にあり、長谷川利行は佐伯祐三Click!をはじめとする1930年協会の仲間を訪ねるついでに衣笠邸へ立ち寄ったのではなく、池袋モンパルナスClick!に住んだ画家たちとの交遊ついでに、武蔵野鉄道線(現・西武池袋線)の貨物列車による震動が悩みの種だった衣笠邸へも、顔を見せていた可能性が高い。もちろん、利行は東日本橋(旧・西両国)の薬研堀界隈、わたしの実家の斜向かいにあった丸美屋本社ビルへ衣笠を訪ねているのは、前回ご紹介したとおりだ。すずらん通りClick!を、浮浪者のような格好をしてやってきた利行が、オシャレな丸美屋ビルへと消えていくのは異様な光景だったろう。
 
 
 衣笠静夫を単にミツワ石鹸の重役であり、電通の吉田英雄とともに現在の広告業界の基礎を築いた広告人・・・とだけ紹介するには、少なからず抵抗感がある。戦前の広告人と今日のそれとは、かなり質的な違いが存在するからだ。現在の広告制作における役割は、プロデューサーをはじめ、クリエイティブディレクター、アートディレクター、コピーディレクター、デザイナー、コピーライター、イラストレーター、プランニングディレクター、プランナー、スーパーバイザー、アカウントディレクター、イベンテイター、各種コーディネーター・・・などなど、実にさまざまな専門職に分業化されているが、衣笠静夫が制作現場で活躍した時代、彼が担った役割はそのすべてだったといっても過言ではない。
 時代の推移と業界の進展により、彼はアートディレクターという肩書きに集約されて呼ばれることが多くなったようだが、より今日的なショルダーを冠していえば、制作すべてを統括するクリエイティブディレクターという肩書きのほうがふさわしいかもしれない。役職が細分化される以前のクリエイティブワークは、画家であり詩人でもあり、図案家、企画家、マーケッター・・・と、そのすべてを備えたマルチ人間的なスタンスや、ことに芸術家的な肌合いが不可欠とされていた。
 池袋の大原にあった衣笠邸の様子は、当時、結婚したばかりの愛子夫人が回想している。1974年(昭和49)に出版された、『ロマンと広告―回想 衣笠静夫―』から引用してみよう。
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 日曜日になると、両手にいっぱい本をたくさん買ってくるのです。それがよほど楽しみのようでした。池袋の立教大学の近くの夏目という古本屋がゆきつけのようでした。買いすぎて不足分をわたくしはよく払わせられました。本は本棚がいっぱいなので畳の上にじかに積んでおくようになりました。自分では掃除をしないので、わたくしが掃除をしようとするとさせないのです。本の重量で床がぬけそうになったことがしばしばありました。大分かわったところのある人でした。
                                       (宮崎博史「衣笠静夫小伝」より)
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 そして、衣笠静夫を頼って東日本橋の丸美屋商店を訪れていたのは、長谷川利行だけではなかった。さまざまな画家や作家が出入りしていたようで、その中には売れるあてのない詩稿を手に、ダダイスト高橋新吉Click!もすずらん通りを通ってきていた。同書から引用してみよう。
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 タダの詩人、高橋新吉などはもっとも多く静夫の恩恵を受けた。新吉はどこの出版社でも買手のない彼の詩稿を丸美屋の事務室まで売りに来た。静夫はこの詩人の空腹を助けるためにいつも快く自分のポケット・マネーで、この不思議な詩稿を買いとっていたのである。/また、当時まったく顧みるものもなかった洋画家長谷川利行も、その作品をしばしば静夫に買ってもらっていた。静夫以外誰一人彼の画をみとめてくれるもののない時代だった。静夫はこの陋巷に住む貧しい画家の作品を高く評価していた。静夫は自分で買えぬ時は会社の同僚にたのんで無理に買わせることもあった。(同上)
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 衣笠静夫が世界じゅうから蒐集した、さまざまな画集や詩集などの文学資料は、一度関東大震災Click!ですべて焼失しているが、それから再びコツコツと収集した蔵書は1万冊にもおよび、現在、それらの膨大で貴重な蔵書は、おもに詩集類を中心に「衣笠詩文庫」として早稲田大学に寄贈されている。また彼は、下落合の地元では「目白文化協会」という地域活動を通じて、目白・落合界隈に住んでいた芸術家や文化人たちのコミュニティ活動へも積極的に取り組んでいた。
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 衣笠静夫は「目白文化協会」という地域団体の常任幹事もしていた。この文化活動にも彼は一生懸命に尽力した。これは敗戦後、荒廃した目白地区に住む名士や文化人や芸能人の楽しい集りであったが、このことについては、小野七郎常任幹事の「読書家衣笠さん」という一文にくわしく誌されているので、ここではすべて省略することにする。彼の珈琲好きについては前にいくたびか書いたが、彼は目白通りの珈琲店には連夜のように現れて、なかなかその方面でも顔が売れていたそうであった。(同上)
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 ここに書かれている「目白通りの珈琲店」とは、衣笠邸から北へ歩いて目白通りへと出る右手の角、現在の桔梗屋書店のところにあった喫茶店のことだろう。
 
 
 敗戦後、東京へもどった衣笠静夫は、三輪家が疎開中で空き家になっていた下落合の三輪邸離れ家へひとりで住みこみ、15年間にわたる長い戦争でめちゃくちゃになってしまったブランド、ミツワ石鹸の本格的な復活に取り組むことになる。そして、さまざまなマスメディアを通じて配信する、今日ではあたりまえとなった媒体広告のシステムづくりと、丸美屋1社のみならず電通の経営陣とともに、広告業界全体の質の向上や人材の育成に全力をつくすことになる。
 なによりもタバコとコーヒーが大好きだった衣笠静夫と、彼には気を許して甘えていたらしい長谷川利行、さらに地元・下落合における「目白文化協会」の活動については、記事のボリュームが足りないので、機会があったらまた改めてご紹介したい。

■写真上:左は、下落合の衣笠静夫が暮らしたあたり。右は、1959年(昭和34)の衣笠静夫。
■写真中上:上左は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる三輪善太郎(のち三代目・三輪善兵衛)邸あたり。このときは、丸美屋商店の社主はまだ二代目・三輪善兵衛の時代だ。上右は、二代目・三輪善兵衛のプロフィール。下左は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる三輪邸敷地。下右は、1947年(昭和22)に撮影された空中写真にみる同邸界隈で、すでに三代目・三輪善兵衛(善太郎)の時代となっていた。
■写真中下:上は、衣笠静夫の作品で1927年(昭和2)ごろに描かれた『魚』(左)と、1932年(昭和7)制作の『梨』(右)。特に前者は、どこかシュールレアリズムの匂いがする。下左は、1951年(昭和26)ごろに下落合の三輪邸庭で撮影された衣笠静夫(右端)で、中央は三代目・三輪善兵衛。下右は、1954年(昭和29)に放送されたミツワ石鹸提供のラジオドラマ「いのちかけて」の収録記念写真。左から衣笠静夫、ひとりおいて宇野重吉、ふたりおいて滝沢修、岸恵子。
■写真下:衣笠静夫が昭和初期に手がけた、ミツワ石鹸の媒体広告とパッケージデザイン。