1936年(昭和11)2月26日、高良とみClick!は大雪の新宿にいて二二六事件Click!のニュースを知った。新宿方面に事件のウワサが伝わってきたのは、同日の午後になってから・・・というClick!が多いようだ。おそらく、不安になった彼女は動いていた山手線で高田馬場駅へともどり、西武電気鉄道(現・西武新宿線)に乗り換えて下落合駅から自宅(当時の地番は旧・下落合2丁目680番地で、現在は中落合2丁目)に引き返したと思われる。1983年(昭和58)に出版された、高良とみ『非戦(アヒンサー)に生きる』(ドメス出版)から引用してみよう。
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 一九三六年(昭和一一)年(ママ)の二月二六日、いわゆる二・二六事件のニュースを、私は雪が降り続く新宿で聞き、これは大変なことになったと思いました。また、どのような関係を通してかは覚えておりませんが、その頃私は陸軍省に行って、陸軍のインド征服計画および「満州国」独立、そしてアジア征服計画を、大臣や局長から聞いたこともあります。今顧みても何と暗い時代であったことかと、戦慄を覚えます。 (同書「行動する心理学者として」より)
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 高良とみが、「二・二六事件のニュース」と書いている点に留意していただきたい。ラジオは当日の朝から沈黙していた・・・というのが「公式」の記録だけれど、うちの親父も祖母Click!とともに「ラヂオのニュース」を聞いたと一貫して口にしている。同日の様子を、目白駅の向こう側の江戸川橋近くに住んでいた、当時はまだ6歳だった都筑道夫は、『推理作家が出来るまで』(フリースタイル/2000年)の中で、こう表現している。
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 私の記憶にある昭和十一年二月二十六日は、物音のしない一日であった。雪がつもっていて、物音が吸いとられるせいだったろう。(中略) 両親や祖母も、あまり喋らなかった。雪のふりつもったところが見たくて、私が外へ出ようとすると、父親に叱られた。その口調で、なにか大変なことが起ったらしいのは、私にもわかった。(中略) 子どもごころにも、異様に緊張した一日だった。それが、二・二六事件の日だという認識を持ったのが、いつだったかはおぼえていない。
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 家にいた都筑家では、なぜ「大変なことが起った」のを早くから知っていたのだろうか?


 同日の午後、西武電鉄を高良とみとは逆方向から乗り、高田馬場駅で山手線に乗り換えた女性がいた。江戸期からつづく神田の家に生まれ、垢抜けした言動が美しかった彼女は、中井駅のとなりの新井薬師前駅から乗りこみ、下落合の丘を眺めながら高田馬場経由で山手線の日暮里駅あたりへと向かう予定だった。高良とみとは、人出が極端に少なかった駅やホームのどこかですれ違っているかもしれない。彼女は、新井薬師の商店街にあったうなぎ割烹「石田屋」に、仲居として働きはじめたばかりだったが、店の主人と恋愛関係になり待合茶屋で待っている彼のもとへと急いでいたのだ。のちに駆け落ちすることになるふたりだが、女性の名前は阿部定、待っている男は石田吉蔵だった。
 さて、高良とみが「戦慄を覚え」たように、その後わずか5年で日本は太平洋戦争へと突入することになった。空襲が予測される時期になると、高良家では家族を茨城県へ疎開させているが、夫の高良武久は高良更正院(のちに高良興生院)の運営と、慈恵医大の教授を引き受けていたので、東京を離れられなかった。1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!では、当夜たまたま慈恵医大で宿直だった彼は、次々と運ばれてくる負傷者の手当てに忙殺されている。
 元・米国人のキリスト教伝道師宅だった疎開先の家を、憲兵隊に「敵の財産」だと没収された高良とみは、やむをえず家族を連れて旧・下落合3丁目1808番地(現・中落合1丁目)の、高良更正(興生)院に隣接した自宅へともどってくる。疎開先の家を憲兵隊から執拗に追われたのは、前年の1944年(昭和19)に起きた良心的兵役拒否の「石賀事件」に、高良とみが関連していたと憲兵隊からにらまれていたからだ。彼女は連日、憲兵隊本部から呼び出しを受けて尋問されており、疎開先の家屋没収も彼女への嫌がらせのひとつだったと思われる。そして、1945年(昭和20)4月13日夜の空襲Click!を迎えることになる。少し長いが、同書から引用してみよう。
 
 
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 ところが、四月一三日夜、再び東京は空襲を受けたのです。B29が急旋回してくる中を、私は三人の娘たちに貯金通帳や米の配給帳を入れたかばんを一つずつ背中にくくりつけ、防空壕からさらに川の中洲へ避難させました。武久と私は、病院の者たちと共に防空頭巾をかぶり、防火につとめているうちに、隣の幼稚園の石炭置き場に焼夷弾が落ち、あっという間に燃え拡がってしまいました。/火はどんどんこちらへ近づいてきます。私の頭巾の左側にも火が燃え移り、あわてて頭巾を投げ捨てた瞬間に、大きなドカーンという音がしました。私たちの目の前の病棟に何本もの焼夷弾が落ちたのです。私たちは必死で消火にあたりました。そうしているところへ、思いがけなく坂の上からきた消防車が、川の水を吸い上げて母屋へ燃え移ろうとしていた火を消してくれたのです。患者さんのベッドに炎がぶすぶすくすぶっているのを見た私は、すぐに傍にあった枕でポンポンたたいて火を消しました。ふと目を上げると、高田馬場方面の東の空に、真っ赤なトマトのように焼けた太陽が昇ってくるのが見えました。辺りは一面火の海でした。 (同上)
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 当時は十三間通り(新目白通り)は存在しないので、消防車は目白崖線の「坂の上から」やってきたのだ。おそらく、神田川・妙正寺川沿い一帯が空襲されているので、目白通りあたりの消防署から聖母坂を下り、駆けつけてきた消防車の1台だったのだろう。あたりは「火の海」だったと書いているが、この川沿いの中小工場をねらった空襲で亡くなった方Click!も少なくない。
 
 また、高良家が妙正寺川の川中へ避難しているのも興味深い。当時は、すでに妙正寺川の整流化工事とコンクリートによる護岸工事は終わっていたが、まだ現在ほど川底が深く浚渫されていなかったのだろう。川底には、水面から顔をのぞかせている「中洲」があり、家族はそこへ避難していた。彼女は「川の中洲」と書いているが、砂洲は川のまん中ではなく、妙正寺川の南岸に沿って中井方面へと長くつづいていた。この砂洲については、敗戦後すぐに米軍のB29から撮影された空中写真でもハッキリと確認することができる。高良家だけでなく、妙正寺川の川の中へ避難したお宅はまだかなりありそうだ。ご記憶の方があれば、ご一報いただければと思う。

■写真上:高良興生院と高良邸が建っていた、旧・下落合3丁目1808番地の現状。現在、建物の1階はベーカリー兼カフェ「スワン」になり、コンサートや展覧会など多彩な催しが開かれている。
■写真中上:上は、1938年(昭和13)制作の「火保図」で高良更正(興生)院のできる前の様子。下は、1947年(昭和22)の同所。かろうじて高良邸が焼け残り、病棟もいくつか残っている。
■写真中下:上左は、1944年(昭和19)の空襲半年前に撮影された高良邸。上右は、1960年(昭和35)に住宅協会が作成した「東京都全住宅案内帳」にみる高良興生院。下左は、妙正寺川で危うく難を逃れた高良一家。手前左から、高良登美、高良武久、高良とみ。下右は、現在の同所。
■写真下:左は、昭和橋の上から見た妙正寺川で、川の右手が高良興生院にあたる。右は、旧・白百合幼稚園の敷地前あたりから眺めた昭和橋。ほどなく、下落合駅へと抜けることができる。
★Hiroyuki Senbokuさんが、卒園された白百合幼稚園の貴重な写真や資料を、ご自身のブログで公開されました。戦後に同園を卒園された方には、たいへん懐かしい資料類ではないでしょうか。ぜひご参照ください。
http://seewind.at.webry.info/201404/article_4.html