さて、三社権現社なのだ。幕末から明治にかけ、三社明神と名前が改められ、おそらく直後に廃仏毀釈で明治政府から押しつけられたのだろう、1872年(明治5)にわけのわからない「浅草神社」という名称に変えられてしまった。親父は育った家庭環境Click!からか、この「じんじゃ」という呼称には終生違和感を感じており、「神田生姜」(神田明神のこと)とか「神社ビール」(下戸の親父がよく注文したジンジャーエールのこと)とか言って、明治政府の不粋なネーミングを揶揄しつづけ、日本の神々を差別して“等級づけ”し、国家神道や戦争の“道具”に利用された「じんじゃ」という妙な言葉は、できるだけ避けてつかわないようにしていた。
 何年か前、浅草寺に出かけたついでに、東側にある三社権現(明神)あたりもブラブラ歩いたのだけれど(子どものとき以来だ)、周辺の街並みや風景のあまりの変わりように、それが三社権現(明神)であることにさえ気づかなかった。それに、親父は「三社さん(ま)」と呼んでいたので、三社権現=「浅草神社」へにわかに結びつかなかったのだ。社(やしろ)自体も、鮮やかに塗りなおされていたのでなおさらだった。しばらくは、浅草寺の伽藍の一部のように見えていたりする始末。それが、親父に連れられて歩いた「三社さん」だったと、ハタと気づいて思い出したのは家に帰ってきて、少し時間がたってからのこと。そう、親父に連れ歩かれたときの紹介が、江戸の昔からの名称「三社さん」だったので、よけいにピンとこなかったのだ。日本橋界隈は、神田明神の氏子町であって、三社さんとは昔からイマイチ縁が薄い。
 “しばらく”たってから気づいた三社さん、シャレじゃないけれど、ここは歌舞伎の『暫(しばらく)』にゆかりのあるところ。拝殿の左手に、戦前は9代目・市川団十郎が演じる『暫』の、鎌倉権五郎のいわゆる「元禄見得」をきっている銅像が建っていたそうだ。親父と歩いたとき、戦争で団十郎が溶かされた・・・とかいう話も、おぼろげながら聞いた憶えがあるようなないような・・・。戦前の銅像は、彫刻家・新海竹太郎の制作で、森鴎外の撰文に中村不折Click!の揮毛、「九代目市川團十郎」の文字は西園寺公望Click!が書いている。1980年代に入ってから、像を復活させる運動がにわかに起こり、1986年(昭和61)に三社さんの横手ではないが、浅草寺の北側、浅草寺病院の近くに9代目・団十郎像はよみがえった。それについて、親父がなにか言っていた記憶がないので、浅草が地場ではない親父には、それほどの感慨がなかったものだろうか。
 
 三社さんについては、いまさら解説するまでもないだろう。主柱は檜前浜成、檜前武成、土師真仲知の3神で、このうち檜前(ひのくま)兄弟は宮戸川(別名:浅草川=現・隅田川の一部)を漁場にするナラ時代の漁師だ。628年ごろ川で漁をしていたところ、小さな観音像がひっかかり、それがのちに金龍山・浅草寺の縁起になったとのこと。どこまでが事実かは不明だけれど、江戸浦の浅草湊は、三浦半島の六浦(むつうら=現・金沢八景)とともに、最新の研究によれば古墳時代から天然の良港として繁栄していたらしく、古代における太平洋沿岸の物流の一大拠点として機能していたようだ。だから、なんらかのいわれが地元でエンエンと伝承されてきたものと思われる。
 余談だけれど、明治政府の神祇官が「勅命」とか称して、浅草寺の絶対秘仏だった観音像を無理やり開帳させ、スケッチしていったバチ当たり事件があった。(明治政府はどこまでバチ当たりClick!なんだろう) そのスケッチによれば、大きさが約20cmほどの、小さな両手両足のない聖観音像だったらしい。この神祇官は、秘仏を見たあと災難に遭って死んだかどうかまでは知らないが、のちに遺族がスケッチをなぜか浅草寺へひっそりと返還(奉納)している。
 三社さんの三社祭(さんじゃまつり)は、最近は地元の暴力団がらみの荒っぽい祭りとして、警察沙汰が多いことで有名になってしまったけれど、通称「三社祭」と呼ばれる歌舞伎舞踊『弥生ノ花浅草祭(やよいのはな・あさくさまつり)』の演目でも知られている。初春のおめでたい歌舞伎として、正月の出し物で演じられることが多い。なぜ「弥生」なのかというと、現在の5月17日~18日の祭礼とは異なり、江戸時代には三社さんの祭日は旧暦の3月17日~18日だったからだ。舞踊のほかにも、清元でも「三社祭」は昔から人気があったようで、子供のころから清元を無理やり習わされていた親父の、どうやら十八番(おはこ)のひとつだったらしい。「♪弥生なかばの花の雲~鐘は上野か浅草の~三社まつりの氏子中~」・・・と、清元の中でも超有名な曲だ。
 
 三社さんの社殿は、東京大空襲Click!でも奇跡的に焼け残り、いまでは国の重要文化財に指定されている。1996年(平成8)に鮮やかな色に塗りなおされたせいだろうか、子供のころの印象とはまるっきり異なり、浅草寺の伽藍のひとつのように見えてしまった。なんとも情けない話なのだけれど、三社祭が暴力団の資金源になっていそうなのは、もっとさらに情けない。

■写真上:鮮やかな色に塗りなおされた、浅草の三社権現社(浅草神社)。
■写真中:左は、1950年(昭和25)ごろの三社権現。右は、9代目・市川団十郎の鎌倉権五郎。
■写真下:左は、歌舞伎舞踊『弥生ノ花浅草祭』の舞台で7代目・坂東彦三郎(右)と2代目・尾上松緑(左)。右は、1853年(嘉永6)出版の尾張屋清七版「今戸箕輪浅草絵図」にみる三社権現。