安東広重Click!の『名所江戸百景』第26景に、品川湾に面した新井宿と大井との間の春景色を描いた「八景坂鎧掛松」がある。現在の大森駅前に拡がる、山王地区の丘陵に通う坂のひとつを描いた作品だ。山王から馬込あたりにかけ、近年「馬込文士村(大森文士村)」としても有名で、散策マップや文士村マップも作られているようだけれど、この一帯はわたしの連れ合いが小中学生時代をすごした街であり、当時の同級生がたくさん住む“庭”のようなエリアなのだそうだ。
 山王・馬込界隈の丘陵は、たとえば目白崖線のように、崖が線状となってほぼ一直線につづき、崖を上ってしまえば比較的平坦な地面が拡がる、台地状の景観とはかなり異なっている。まるでリアス式海岸のように、大小の谷間があちこちに入り組んで存在し、崖を上ると尾根上の平地は現れるが、すぐにまた下り坂となり、再び行く手に丘の斜面の上り坂が見えてくるという、起伏の激しいとても複雑な地形をしている。「八景坂」という名称は、少なくとも江戸前期からつかわれているようだが、同時に“薬研(やげん)坂”とも呼ばれていたようだ。大小の谷間が複雑に入り組む山王地区を歩いていると、両側から切り立った崖が迫り、まるで薬研の底のような谷間や坂道を多く見かける。そのような地形の坂道を指して、いくつかの道筋が江戸期にそう呼ばれていたのかもしれない。わたしは、この「八景坂」という地名は、もともと「バッケ坂」あるいは「ハケ坂」と呼ばれていたものへ、後世に漢字が当てはめられたのではないかと疑っている。
 
 東京におけるバッケClick!あるいはハケClick!の地名は、地下水脈が地表近くに通い、そこかしこで湧水や渓流が見られる、段丘状の崖地(あるいは崖の下)に付けられるケースが多い。目白崖線沿いに拡がる落合界隈で漢字が当てはめられず、むき出しのまま残された地名としては、大正末まで住所として成立していた戸塚町大字下戸塚字バッケ下Click!がある。ちょうど、神田川に架かる面影橋Click!の南にある甘泉園の西側から、山手線あたりにかけてのエリアだ。また、通称としてバッケがつかわれた地域としては、旧・下落合4丁目(現・中井2丁目)の南側、妙正寺川に沿って拡がる河川敷が「バッケが原」Click!と呼ばれていた。この呼称は、戦後すぐのころまで普通につかわれており、現在でも地元では多くの人たちに通じる地名だ。
 「バッケ」という音がむき出しのまま残っためずらしいケースだけれど、多くの場合は地名の音に漢字が当てはめられたり、またはバッケの意味が忘れられてしまった地域では、ことさら意味の通る言葉に置き換えられたりしてきたものと思われる。急斜面の崖地(バッケ)に通う坂道だから「バッケ坂」と呼ばれていたものが、時代とともに本来の意味が忘れ去られ、その地形や風情から納得しやすい「オバケ坂」と呼ばれるようになったり、それがさらに「幽霊坂」へと転化することもあっただろう。ただし、音に一度でも漢字が当てはめられたりすると、それがのちにひとり歩きをはじめて、江戸後期から明治期にかけて、さまざまな付会を産むことになる。
 
 
 さて、山王地区の八景坂だけれど、8つの景勝地が選ばれてから、ようやく八景坂と呼ばれるようになった・・・というのはおそらく逆さまで、八景坂という字の坂道だから江戸期にことさら8つの景勝地が選ばれた・・・という順序ではないだろうか。これは、江戸湾の金沢八景(六浦)についてもいえる。古くは六浦(むつうら)と呼ばれ、古墳時代から浅草湊と同様に天然の良港(湊)=物流の拠点として繁栄していたことが、最近の考古学的な成果でも明らかになっている。
 のちに、名勝地を8つ選んだから金沢八景と呼ばれるようになったと説明されることが多いが、金沢(かなさわ)あるいは神奈川(かながわ/かんながわ)の地名が残る地域では、良質な砂鉄が湧く泉や渓流が豊富に存在していたことを示唆している。事実、神奈川(カンナ流しによる砂鉄採集法が行なわれた河川)地域の砂鉄とタタラ精錬による目白(鋼)Click!はきわめて高品位で、700年経ているにもかかわらずいまだ鍛刀技術的に超えられないでいる、日本刀の最高峰であり正宗や貞宗に代表される相州伝(鎌倉鍛冶)を産んだのは、現在の横浜(神奈川)あたりから三浦半島にかけての良質で豊富な砂鉄が基盤となったからこそなのだ。そして、砂鉄が採れる湧水や渓流の多い金沢の崖地を、「金沢バッケ」あるいは「金沢ハケ」と呼称してやしなかっただろうか。
 それを示唆する、もうひとつの古い地名音に「やと」「やち」「やつ」などの呼称がある。「谷戸」あるいは「谷津」「八津」「谷」などと書いてそう読ませるケースが多いが、東京の谷戸地名が残っている地域には、まるでセットになっているようにバッケ(「オバケ坂」含む)やハケという地名音が残存している。同様に、三浦半島(房総半島にも)には「谷」のことを「やつ」と発音する地域が多い。「やと」「やつ」は、yatu(ヤトゥ)という音に漢字が当てはめられたと思われ、原日本語(アイヌ語に継承)では脇の下=小谷を指し、yaci(ヤチ)はもう少し広い谷間(大谷)のことを指している。後世になると、バッケまたはハケに「八景」の文字が当てられ、その漢字に引きずられて江戸期に8つの景勝地が選ばれた・・・そんな気配が強くするのだ。現在では住宅地の斜面となり目立たなくなっているけれど、幕末から明治にかけて撮影された金沢八景の写真類を見ると、まさに切り立った崖地(バッケ)の下に展開する、古墳時代からの天然の良港であり湊町だった様子がうかがわれる。
 
 大森駅前の八景坂は、東海道線の敷設や池上通りの開通によって地形が大きく変わり、現在では当時の名残りさえとどめていないが、その周辺ではいまでも広重の「八景坂鎧掛松」に描かれた急傾斜の崖地を随所で見ることができる。1884年(明治17)に、大森駅前の丘上には「八景園」と呼ばれる庭園が開設され、多くの遊山客を集めていたようだけれど、大正期に入ると閉園して分譲宅地として売りに出されている。時代が400年ほどの昔であれば、八景園は「はっけいえん」ではなく、地名音そのままに「ばっけえん」あるいは「はけえん」と呼ばれていたのかもしれない。

■写真上:山王の丘上から眺めた風景で、目白崖線よりはやや高度が低い。
■写真中上:左は、池上通りから山王丘上の天祖神社に通う細い石段で、まさにバッケ階段だ。右は、安東広重『名所江戸百景』の第26景「八景坂鎧掛松」(部分)にみる切り立った崖地。
■写真中下:大森駅前の山王地区は空襲でも焼けておらず、随所に大正から昭和初期に建てられた近代建築が残る。下左の古いアパートは、大森駅前の望翠楼ホテルが建っていたあたり。このホテルでは洋画家たちの「木原会」Click!が定期的に開かれ、亀高文子や鶴田吾郎などが参加していた。下右は、幕末あるいは明治初年あたりに撮影された金沢八景(六浦)。
■写真下:左は、山王の丘上に通う代表的な坂道の闇(くらやみ)坂。坂の左手が、明治期に八景園が開設されていたエリアだ。右は、開設されたばかりのころの八景園入口。