以前、1930年協会による第2回展Click!が、1927年(昭和2)6月に開催される直前または開催中に、美術雑誌『アトリエ』の7月号に掲載されたメンバーたちの似顔絵マンガClick!をご紹介した。「『一九三〇年協会丸』の乗組員」と題する記事だが、その中になぜか日本画家・野長瀬晩花が描く、同協会メンバーの木下孝則と小島善太郎の似顔絵があったので奇異に感じていた。なぜ日本画家が、洋画家集団の1930年協会に関わっているのだろうか? その不可解な関係を解くカギは、里見勝蔵Click!や川口軌外Click!の滞欧時代、つまりパリの街にあった。そして、1930年協会と野長瀬晩花とを結ぶ経糸は、中村彝Click!の友人だった保田龍門Click!とも絡み合って、“和歌山”というキーワードが浮かんでくる。
 東京美術学校を出たばかりの若い絵描き5人によるグループ展が、1916年(大正5)に和歌山で開かれている。メンバーは保田龍門、川口軌外、林義明、寺中美一、大亦新次郎の5人だ。そして、保田と同時期に滞仏中だった里見勝蔵は、おそらく美術学校時代から保田を知っており、パリでは和歌山出身の川口や保田と交流する機会が多かったのだろう。里見からマルセイユで闘病生活を送る保田龍門へあてた、1923年(大正12)3~4月ごろのハガキが現存している。この時期、保田はチフスにかかり3ヶ月も入院していた。ハガキの文面を、2006年に練馬美術館で開かれた『大正期の異色画家たち-和歌山県立近代美術館所蔵名品展-』図録から引用しよう。
  ●
 君が南で病気してゐると聞いて大変おどろきました そしていかがですか 全くお困りだったろうと思ひます 何か巴里でとゝのへられるべき必用品があるなら云つて下さい お送りしませう 川口君に会ひましたか この二十日の舟で立った筈です 先日に非常に暑くて私は巴里をのがれて来たのですが今は涼しくなつたが雨にフラれて困つてゐるのです 新しく出来たサロンデチユイレリーは秋のサロンの様です 作家の程度が定まつてそんなに面白くもありません カドラン宿にて 里見 呉れ呉れも御保養をいのる (寺口淳治「断片から」より)
  ●
 
 和歌山出身者でグループをつくり、パリでもときどき会っていたらしい保田と川口だが、そこへ里見勝蔵もしばしば加わっていたらしい。その様子を伝える貴重な写真が、川口軌外のアルバムに残されていた。写真を発見したのは、上記の図録へ原稿を寄せた和歌山県立近代美術館の学芸員・寺口淳治氏だ。この写真の中に、川口と里見のほかに男がもうひとり写っている。それが同時期にパリにいた日本画家の野長瀬晩花であり、里見とはこの「和歌山グループ」で知り合ったようだ。寺口氏は、野長瀬晩花の日記にも当たって裏取りをしている。同図録から引用してみよう。
  ●
 注意深く晩花の滞欧日記を読みますと、この日のことが出てきます。日付は1922(大正11)年5月21日。「朝十時起床 エンコへ手紙かく 十一時半シヤルチエ 田中居る 黒田君と川口君 里見君等来る 僕と里見君と川口の三人で郊外へ出て散歩でもしようと舟でセーヌ川下るつもりだつたが時間の都合でメトロでガールドサンラザールへゆき 汽車でアルデントイユまで乗る そこで降りてオランジエやらあめなんかを買つて川ぶちの青い草の上にねこんでいろんな話しをする そこにある橋は印象派の連中がよく描いた橋だそうだ 八時の鐘がなつてからボツボツ帰り出す 巴里へ着いたら十時近くだつた (同上)
  ●
 
 この記録により、写真は1922年(大正11)5月に郊外散歩に出かけ、アルデントイユ(アルジャントゥイユ)の川岸で撮影されたものであることが判明した。おそらく日本へもどってからも、「巴里仲間」である里見と野長瀬との交流はつづいていたのだろう。1930年協会展にも、野長瀬は顔を見せたかもしれない。同協会の木下義謙と木下孝則の兄弟も、和歌山の出身者だった。野長瀬が木下孝則の似顔絵を描いたのも、おそらく偶然ではないだろう。
 「断片から」というタイトルでもわかるとおり、和歌山県立近代美術館の学芸員である著者の寺口氏は、さまざまな資料やささやかな記録(証言)の断片を集め、それらを少しずつ調べては裏づけ、あるいは推理して積み重ねていく作業を、次のように書いている。
  ●
 これらはそれぞれのつながりを認識されて集められたわけではありません。それぞれはたくさんの中の一つの断片でしかないのです。時期が来れば忘失されてしまうものであったかもしれません。そしてまた時代を画するほどのものでももちろんありません。しかし、このような断片を集め、残し、調べ、つなげ、言葉にすることによってはじめて歴史となるということを私たちは知っています。歴史は絵空事ではないのです。 (同上)
  ●
 
 わたしが記録や証言などの資料を調べ、ときには取材し、このサイトの記事を書くときにいつも感じ、考えていることにたいへん近しい感覚なので、最後にご紹介しておきたい。もうひとつ、わたしが書き加えるとすれば、絵空事ではない歴史、ひょっとすると時代を画するような歴史さえ自分の街に、隣りの家に、自身の足元に眠っているかもしれないのだ、

■写真上:1927年(昭和2)6月17日~30日に開かれた1930年協会の第2回展より、一般からの作品公募がスタートした。写真は応募作品を審査する1930年協会のメンバーたちで、右から里見勝蔵、木下孝則、林武、小島善太郎、野口彌太郎、佐伯祐三、木下義謙、前田寛治の面々。
■写真中上:保田龍門の遺品に含まれていた、里見勝蔵の絵はがき。裏面の写真はオーヴェル・シュル・オワーズの風景で、ゴッホや佐伯が描いた教会Click!の鐘楼が見えている。
■写真中下:アルジャントゥイユの川岸で撮られた貴重な写真。左は、里見勝蔵(左)と川口軌外(右)。右は、野長瀬晩花(左)と里見勝蔵(右)。背後に見えるのがモネの作品で有名な鉄橋。
■写真下:左は、1932年(昭和7)に制作された川口軌外『白い花』。右は、1924~25年(大正13~14)ごろにフランスで描かれた里見勝蔵『ストーブ』。