東京23区内には、「すりばちやま」古墳と名づけられた古代の墳墓が、わたしの知る限りふたつ存在している。ひとつは、上野公園の高台にある「摺鉢山古墳」Click!(台東区)、もうひとつが久が原の旧・六郷用水沿いの斜面にある「スリバチ山古墳」(大田区)だ。上野の前者が古墳時代中期(5世紀半ば)ごろの古墳だが、久が原の後者は古墳時代末期(7世紀)ごろのものと新しい。
 都内には、摺鉢山と名づけられた「山(跡)」や「丘(跡)」が多いが、この2例の古墳も発掘場所の名称をとって付けられている。でも、「すりばちやま」という地点を発掘するたびに「摺鉢山古墳」と名づけていたのでは、日本じゅう同名古墳だらけになってしまいかねないので、現在ではもう少し広い地域の名称を取って命名されることが多いようだ。上野にある「摺鉢山古墳」の存在は、明治期から知られていて命名も古いが、久が原の「スリバチ山古墳」は戦後になって発掘されたもので、都内の同名古墳と差別化するために、呼音のまま「スリバチ」とカタカナにしたものと思われる。
 同様のことが「丸山」Click!や「双子山」、「稲荷山」などの古墳地名についてもいえる。少し前に、谷間のユリさんからもコメント欄でご指摘Click!をいただいたけれど、「丸山」(円山と漢字が当てられた例も多い)地名は全国各地に存在しているが、戦前から古墳であることが確認されると「丸山古墳」と名づけられてきた。でも、それでは全国が「丸山古墳」だらけになってしまい区別が難しいので、現在では「丸山」の上に広域名を付けて呼ぶことが多い。港区の「芝丸山古墳」Click!や、茨城県の「石岡丸山古墳」などがその例だ。さらに、あまりに「○○丸山古墳」が多くてわかりづらいので、新しいネーミングでは「○○○古墳」の「丸山1号墳」といった名称も増えてきている。だから、テツオさんが記事へコメントされている「下落合摺鉢山古墳」(仮)Click!あるいは「下落合丸山古墳」(仮)という、差別化のための地域名をかぶせた呼称は、いまや必須といえるのだ。
 
 
 さて、1984年(昭和59)の調査では帆立貝式古墳とされてしまったが、わたしは本来の姿は前方後円墳ではないかと疑っている、上野公園の摺鉢山古墳についてみてみよう。上野山は明治以降、全体の公園化を含めて多大に人の手が入れられている。おそらく、台地上はあらかた平らに均されてしまい、わたしも鳥居龍蔵と同様に多くの古墳群がつぶされ、破壊されてしまったと想定している。上野の摺鉢山古墳は、全長が100m弱で後円部と前方部のかたちが公園道路のために削られ、また墳丘も平らに削られて、公園の見晴台のひとつにされていたようだ。明治以前には、おそらく全長100m以上のもっと大きな前方後円墳だったと思われるが、いまやその面影はない。造営されたのは5世紀後半、つまり古墳時代中期の後半あたりと推定されている。
 「下落合摺鉢山古墳」が築造されたのは、上野の摺鉢山古墳よりももう少し早い時期ではないかと想像している。古墳時代の中期(5世紀)は、古墳の形式からほぼ5期に大別できるけれど、上野摺鉢山古墳の築造は中期古墳4~5期に相当する。わたしは、「下落合摺鉢山古墳」Click!はそのサイズや規模からみて、全国で巨大な前方後円墳がほぼ同時に造営されはじめた、古墳時代の前期末から中期初めあたりではないかと考えている。よりピンポイントで規定すれば、中期古墳の2期あたりからは、後円部の直径に対し前方部の幅が同等か、直径を上まわるデザインが登場するようになる。でも、「下落合摺鉢山古墳」は、後円部の直径を前方部の東端幅が上まわっているようには見えない。したがって古墳の巨大さ、中期古墳2期以前のフォルムから推定すると、古墳時代の中期1期(5世紀初頭)、ないしは前期4期(4世紀末)あたりの築造ではないだろうか。港区の芝丸山古墳の存在と、その造営時期とを意識すれば、中期古墳1期(5世紀初頭)に比定できるかもしれない。
 
 
 この5世紀初頭には、同じ都内の巨大な芝丸山古墳のほかに、関東地方ではどのような古墳が築造されていたのだろうか? 古墳の規模からみて、同様のものは北関東(上毛野地域の群馬/栃木)にみることができる。群馬県藤岡市の白石稲荷山古墳(前方後円墳/175m)と、太田市の太田天神山古墳(同/210m)だ。築造時期と古墳のデザイン、地勢などからいえば、「下落合摺鉢山古墳」は白石稲荷山古墳(中期古墳1~2期)にとてもよく似ており、その巨大さからいえば太田天神山古墳(中期古墳2~3期)に近似している。特に白石稲荷山古墳は、川の河岸段丘に沿って築造されている点でも、下落合ケースとそっくりだ。(しかも群馬の同古墳の地域名はなんと「上落合」だ) したがって、そのまま単純に規定すれば、「下落合摺鉢山古墳」は白石稲荷山古墳と太田天神山古墳とが造営された、ちょうど中間期ごろ南武蔵に築造された大王の巨大墳墓ではないか・・・ということになるのだが、はたしてどうだろうか?
 同じ上毛野地域の栃木県側には、江戸期から明治期にかけ開墾のために崩されつづけた、墳丘のみで推定220mを超える雷電山古墳があるが、本来の姿はさらに巨大な300m前後のサイズだったのではないだろうか? 前方後円墳と思われる「下落合摺鉢山古墳」も、周濠域まで含めれば軽く200mを上まわっていたものと思われる。ほかにも、関東における数多くの古墳は、おもに明治以降も道路や開拓によって破壊されつづけてきた。下落合の周辺域で挙げれば、上落合の小字名にも残る大塚古墳(円墳)が戦前の山手通り(環六)工事で、墳丘に奉られていた地蔵尊のみが残る大久保の金山古墳(円墳)と真王稲荷塚古墳(円墳?)その他も山手線敷設や道路工事で、戸塚(十塚)の高田富士になっていた富塚古墳(前方後円墳)は早大の校舎建設で破壊されている。また、富塚古墳のすぐ隣り、明治以前では古墳が高田八幡としてならされてしまい、のちに境内から羨道が見つかったため通称「穴八幡」(おそらく境内の形状からみて前方後円墳Click!だろう)と呼ばれるようになった社が早稲田にある。(上野山の花園稲荷=穴稲荷Click!も同様のケースだ)
 まつろわぬ、火さえ起こせぬ「坂東夷」が跋扈していた土地は、基本的に「ヤマトタケル」が「征伐」すべき対象としての「野蛮」な武蔵野の「原野」であるべきであり、「地方豪族」の「辺鄙」な墳墓がいくつか発見される程度であれば「問題」はないけれど、あちこちで「大王」レベルの巨大な前方後円墳が多数発見されては、「日本史」として非常に都合が悪く「マズイ」時代が、つい60数年前まで存在していたのだ。たとえ大規模な古墳だとわかっていても、そんなものは「早く消滅させて、なかったことにしてしまえ」という意向が、明治政府とそのエピゴーネンたちの意識の俎上になかったのかどうか? 新宿区教育委員会も、「落合遺跡」の発掘報告書で旧石器時代の発見テーマともからめて、戦前の非科学的かつ「自虐的」な「考古学」の問題を取り上げている。
 これらの巨大古墳が公に認知され、本格的な学術調査がスタートするのは、少なくとも科学的にモノが見られるようになったおもに戦後のことだが、にもかかわらず高度経済成長期からいまにいたるまで、関東地方の膨大な古墳破壊はいまだ止まらない。
 
 古代の落合地域に南武蔵勢力を代表する「大王」のひとりがいた・・・というと、「下落合摺鉢山古墳」という仮定の上に、さらに屋上屋の仮説を重ねることになり、学術的には(考古学的にも古代史学的にも)ありえない想定だが、わたしのイイ加減なこのサイトでなら、そこまで想像の幅を拡げても別にどこからもお叱りを受けないだろう。4世紀末から5世紀初頭の南武蔵勢力を代表する王のひとりが、平川(江戸期から神田上水で現・神田川)沿いの目白崖線斜面へ築かれた巨大な墳墓とともに、1600年の時を超えて眠っているかもしれない・・・と想像すると、この土地に連綿と伝わる人々の愛着やこだわりを強く感じて、いまに生きるわたしも、なんとなく優しい気持ちにもなってくる。
 では、これだけ大規模な前方後円墳を造営するだけのマンパワーや経済力が、当時の下落合とその周辺域に実際に存在したのだろうか? 実は、その答えはすでに出ている。古代の、おもに上落合地区には古墳時代の住居跡が多く発見されているし、またより大規模な遺跡である「落合遺跡」(旧・下落合4丁目の目白学園敷地)も同様だ。特に、「下落合摺鉢山古墳」から西南西へ300~600mあたりの地域、最新の「上落合二丁目遺跡」(上落合1丁目21~23番地/上落合2丁目4~8番地)や、「上落合二丁目西遺跡」(上落合2丁目27番地)の発掘をはじめとする、古墳時代の住居遺跡の確認と豊かな出土物(生活用品や栽培植物、装飾品など)が、それを裏付けているといえるのではないだろうか。でも、記事が長くなってしまうので、それはまた、別の物語。

■写真上:「下落合摺鉢山古墳」(仮)の、後円部にあたる北西側の円弧がつづくあたりの現状。下落合駅前から旧・徳川邸の池があったあたりを経て、円弧状のカーブは斜面へとつづいている。
■写真中上:上は、台東区の上野公園にある摺鉢山古墳の残滓(現存95m)。下は、西側と南側に大規模な破壊を受けた港区の東京タワー下、芝増上寺境内に残る芝丸山古墳(現存108m)。
■写真中下:上は、群馬県藤岡市にある白石稲荷山古墳(推定175m)だが、ほとんどが農地化されて墳丘はほとんど存在していない。面白いことに、同古墳のある地域名は「上落合」だ。下は、同県太田市にある太田天神山古墳(約210m)で、県道が古墳の後円部を貫通している。
■写真下:左は、道路工事で部分破壊された太田市の朝子塚古墳。都内では全破壊のケースが目立つ。右は、日本でも最大クラスの玄室を備えた群馬県高崎市にある観音塚古墳(105m)。「下落合摺鉢山古墳」も、このような高度かつ緻密な石組みの巨大な玄室を備えていただろうか。