子供のころ、親父から新聞記事にもなった“事件”として聞かされた怪談があった。小雨が降りそぼる夜、青山墓地(霊園)から下谷(ときに池袋)までタクシーに乗った女が、目的地の家に着いたとたん消えてしまった・・・という経緯だった。この“事件”に遭った直後、タクシードライバーは交番に駈けこむのだが、翌日から3日間高熱にうなされたらしい。“事件”の概略はこうだ。
 小雨が降りしきる秋口の深夜、青山墓地あたりを流していた円タク(1円タクシー)が、ひとりの女性客を乗せる。真夜中の時間帯からみても、若い女性が青山のさびしい墓地周辺を歩いているのはおかしいと思ったが、上がりが少なかった運転手はあまり気にせず、50銭の約束で女性を乗せた。「下谷までやってちょうだい」(ときに「下谷」が「池袋」として語られることも多い)と女はか細い声で言うと、そのまま黙りこんだ。女は雨に濡れたらしく、髪の毛からポタポタと雫を滴らせているのがバックミラー越しに見えている。菊模様の地味な銘仙も、雨でびしょ濡れのようだ。運転手は気味(きび)が悪いと感じたが、そのままクルマを飛ばして下谷(または池袋)まで走った。
 やがて、下谷(池袋)のとある家の前まで来ると、「ここがわたしの家です。おカネを取ってきます」と、いつの間にドアを開けて外へ出たのか、女は運転席へ声をかけると家の中へスッと消えた。それから、待てども待てども女は出てこない。しびれを切らした運転手が、とうとう家を訪ねて「いま銘仙を着た若いお嬢さんを乗せてきたんですが」・・・と事情を話すと、「それは、1年前に死んだうちの娘です。ちょうどきょうが、あの子の一周忌なんです」と母親らしい女性が応対した。運転手はタクシーの料金を払ってもらい、「これは娘が大切にしていた着物なんですよ」と母親が手にした着物を見ると、さっきまで女客が着ていた菊の銘仙だった。
 運転手はクルマにもどってバックシートを確認すると、いましも娘が座っていたところがグッショリと濡れている。彼は怖くなって近くの交番に駈けこみ、巡査に事情を訴えた。・・・と、都会の怪談フォークロアではよくある典型的なパターンのひとつだが、これは1932年(昭和7)10月3日の「報知新聞」に掲載された“実話”だ。運転手は当時23歳だった「横尾政一」さん、女性を乗せたのは青山墓地から下谷(現・御徒町界隈)までで、親父が話してくれた池袋とは方角ちがいなのが面白い。目的地が下谷では少々にぎやかすぎて、より怖さを増幅させるために郊外の寂しい「池袋」が選ばれ、戦前戦後は置換されて伝えられているのかもしれない。運賃の50銭は「母親」が代わりに支払っているので、タクシー料金を踏み倒す手間のかかった詐欺ではなさそうだ。
 
 さて、昔からそんなことを聞かされ脅かされて育ったわたしは、青山あたりを歩くことは非常に少なかった。ましてや大人になってからも、青山墓地の近くに会社のある知人や取引先から、深夜のビルで起きるさまざまなエピソードや怪(あやかし)を、聞かせられつづけてきたのでなおさらだ。青山は江戸期から寺々が多く、その墓地を改葬して街が造られている場所も少なくない。でも、この歳になると幽霊話も怖くなくなり、むしろ美しい銘仙を着た若い女性の幽霊に興味を持ったりするから困ったものだ。(爆!) ということで、青山墓地へ花見がてら散歩に出かけた。
 霊園事務所で園内マップをもらい、広い青山墓地の中をブラブラと散歩していると、春の陽射しがとても気持ちいい。歩いた当時、サクラは三分~五分咲きだったけれど、墓地のあちこちではシートが敷かれ、鍋を囲みながら花見をしている人たちがいる。墓地の死者たちの間で花見というのも、まあ一興なのだろう。そこここで“有名人”たちの墓に気がつき、お参りをして歩く。落合界隈に縁が深い人たちの墓も少なくない。園内でひときわ大きな敷地を占めるのは、鍋島家の墓所だ。近衛篤麿Click!のあとを継ぎ、東亜同文会Click!の二代目会長となった鍋島直大Click!の墓もここにある。ちょうど、斎藤茂吉の墓のある西側一帯の区画だ。鍋島直大は大磯Click!にも関係しているが、先日、旧邸が全焼してしまった吉田茂Click!も青山墓地に眠っている。
 
 鍋島家の墓所のすぐ南側には、宮本百合子Click!の墓がある。東京の小平にも墓地があるので、おそらく分骨しているのだろう。青山の墓は、実家の中條家のものだ。落合界隈では、宮本顕治と結婚してすぐに最勝寺の近く、旧・上落合2丁目740番地へ新居をかまえている。多くの写真に撮られたプロレタリア文学の旗手としての「宮本百合子」ではなく、少し前にご紹介したかわいらしいコスチュームで渡米前の、「中条ユリ」の姿が頭にこびりついて当分離れそうもない。
 もうひとつ、大きな区画を占めているのは将門相馬家Click!の墓所だ。半球形の陵墓には、初代の将門から代々つづく当主の名前が、40代近くにわたって刻まれている。墓所の東端には、3mはあろうかと思われる巨大な五輪塔と宝篋院塔があるのにも驚いた。おそらく当初、明治期に造られた墓石なのだろう。壮大な相馬家の墓所のすぐ近くには、目白中学校Click!へ通ってきていた埴谷雄高Click!(般若豊)の墓がある。「般若家之墓」は質素で、墓石の側面に「豊 平成九年二月十九日歿」と小さく刻字されている。この文字がなければ、誰も日本文学の“巨星”埴谷雄高の墓だとは気づかないだろう。少し肌寒かったけれど、ときどき休憩しながら陽当たりのいい青山墓地をゆっくり散歩するのも、なかなか悪くない。サクラが満開の時期には、きっととんでもない混み方をするのだろう。
 
 ひとつ、気づいたことがある。青山霊園の北辺に、3方を見事に墓地で囲まれた都立赤坂高校がある。きっと、この学校に眠る怪談話は、並みの数ではないにちがいない。部活で遅くなったある夜のこと・・・とか、夏休みの夜に青山墓地へ集まって・・・とか、夕暮れに墓地の中を自転車で近道していると・・・とか、理科室の人体模型が陸橋を走って・・・とか、歴代の怪談話をぜひ採集してみたいものだ。大きな墓地は、街のフォークロアを無限に紡ぎだす、物語の“トレジャーボックス”なのだ。

■写真上:せっかく静かな霊域なのに、青山墓地から生臭い六本木ヒルズが目につく。
■写真中上:左は斎藤茂吉「茂吉之墓」、右は東亜同文会会長の「侯爵鍋島直大卿之墓」。
■写真中下:将門相馬家の墓所で、初代将門から代々の当主名が陵墓に刻まれている。
■写真下:左は埴谷雄高「般若家之墓」で、側面に「豊」名が刻字されている。右は宮本百合子「中條家之墓」で、前面の墓誌に「宮本百合子」の名前が彫刻されている。