その昔、わたしがおそらく小学校の1~2年生のころだったと思うのだが、強烈な印象に残った鎌倉の山があった。かろうじて街並みがつづいていた大町から、いきなり田畑が拡がる長勝寺界隈を経てのぼる、浅間山つづきの丘陵あたりだ。その山稜には、鎌倉七口のひとつである名越切通し(なごえきりどおし)がある。この切通しを抜けると、すぐに逗子の小坪地域へと出られる。そして、名越切通しの北側の山全体には曼荼羅堂(まんだらどう)やぐらが展開している。“やぐら”とは、以前「百八やぐら」Click!の記事でご紹介したように、鎌倉武士を葬った横穴墓だ。つまり、浅間山の南側、法性寺の境内裏山にあたる丘陵全体が“死者の山”なのだ。
 わたしが幼児のころの地図には、「曼荼羅堂やぐら」と書かれていることが多かったが、最近は読めない人が増えたのか「まんだら堂やぐら」と、ひらがなで表記されることが多いようだ。親父の資料類を念のために確認すると、曼荼羅堂やぐらと漢字表記になっている。わたしはその後、何度か名越切通しと曼荼羅堂やぐらを訪れているけれど、小学生になったばかりのころ出かけた初回の印象が強烈なのは、あまりに気味(きび)が悪くおっかなかったからだ。当時、タクシードライバーさえ行くのを嫌がった名越界隈だけれど、子ども心に怖い思いは手前の水田からはじまっていた。名越ヶ谷(なごえがやつ)の水田で、わたしはヤマカガシに「追いかけ」られたのだ。
 もちろん、ヤマカガシは人間が近寄ってきたので驚いて逃げたのだけれど、逃げる方角がわたしとたまたま同じだった。そして水を張った田圃を泳ぐヤマカガシは、子どもが走るのと同じぐらいの驚くほどのスピードだったのだ。ビックリしたあとに、名越切通しから曼荼羅堂やぐらへ登ったものだから、よけいナーバスになっていたのかもしれない。さらに、親父は山麓に拓けた曼荼羅堂やぐらの真んまん中で、お弁当を食べようと言い出した。これが、鎌倉の他の山だったら、草原が拡がる丘上の陽当たりのいい場所での、ほのぼのとした昼食になったのだろうが、名越の山は違ったのだ。わたしは、まわりを大勢の人たちに囲まれて、お握りを食べている感覚につきまとわれた。なにしろ、周囲は見わたす限り、鎌倉期の墓地=やぐらに取り囲まれているのだから・・・。視線を当てられているその感覚は、覚園寺の「百八やぐら」どころではなかった。
 
 
 そんな思い出のある、懐かしい名越切通しから曼荼羅堂やぐらを歩いてきた。鎌倉駅から逗子行きのバス道路を通り、乗り物には乗らずすべて徒歩で行くことにする。名越ヶ谷界隈は、谷(やつ)の奥まで入りこんだ水田や畑は、とうに跡形もなくなって住宅街になっていた。でも、名越切通しのある山へ一歩足を踏み入れると、その風情はまったく変わらず昔のままだ。切通しから曼荼羅堂やぐらへ登ってみると、ちょうど鎌倉市教育委員会が調査中で立入禁止のフェンスが張られ、通常の出入口や山道の脇からは見学できなくなっていた。すでにあちこちが破れている、立ち入りを拒む柵やフェンスをくぐって入るのは、わたしの信条に反するので、山を東側へ大きく迂回し柵やフェンスのない急斜面から登坂して廻りこむと、すぐに大規模なやぐら群が見えてくる。調査中の区画や、シートで保護された分解中の五輪塔・宝篋院塔を注意深く避け、40年前に家族でお弁当を広げたあたりに立ってみた。やはり、曼荼羅堂やぐらは壮観で、何度訪れても圧倒される。
 でも、意外なことに、気味の悪い感覚はまったくおぼえず、逆に陽光があふれる気持ちのいい風情になっていた。曼荼羅堂やぐらは、いちばん高いところではまるで鎌倉期のマンションのように、4階建て(4段重ね)となっている。その威圧的なやぐら構造が、子ども心にことさら不気味な感覚を植えつけたのだろうか? ここは、現在でも鎌倉を代表する、いや関東地方でもトップクラスの「心霊スポット」だ。幽霊のフォークロアは江戸時代からつづいているといわれ、明治期にはこの山の下をくぐる名越隧道と小坪隧道(小坪トンネル)の工事で犠牲者が出て、同じころ曼荼羅堂やぐらの北側には結核療養所が建設され、南側には古くから小坪火葬場が位置している。つまり、鎌倉期から現在にいたるまで、曼荼羅堂やぐら=名越切通しのある山々は、「死」にまつわる伝承に強くしばられつづけてきた地域だ。曼荼羅堂やぐらの隣りへ、いかにも目立つように新しく造られた「無縁諸霊之墓」は、この山全体から出土した人骨を納めてあるのだろう。昔からつづく、さまざまなウワサや目撃情報を踏まえて、法性寺が建立したのかもしれない。
 

 この地域の幽霊話や伝承を記録した資料も多く、小説にも何度となく取り上げられている。鎌倉に住んだ川端康成の、オムニバス短編集『掌の小説』から引用してみよう。
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 鎌倉から逗子へ車でゆくのには、トンネルを抜けるが、あまり気持ちのいい道ではない。トンネルの手前に火葬場があって、近ごろは幽霊が出るという噂もある。夜なかに火葬場の下を通る車に、若い女の幽霊が乗って来るというのだ。
 昼間通るのだからなんでもないけれども、私はなじみの運転手に聞いてみた。
 「私はまだ出あいませんがね。うちにも乗られたのが一人います。うちばかりじゃなく、ほかの会社の車にも乗られたのがあって、夜ここを通るのには、助手をつけることにしています。」と運転手は言った。もういやになるほどくりかえした話とみえる。
 「どのへん?」
 「このへんでしょう。逗子からの帰りで、空車ですね。」
 (中略)
 トンネルを鎌倉がわへ抜けて、火葬場の下にさしかかると、車ががあっと飛び走った。
 「おい出たか。」
 「出ました。旦那の横に坐ってますよ。」
 「えっ。」
 私は酔いがいちどきにさめて、ふと横を見た。 (川端康成『掌の小説』所収「無言」より)
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 わたしは、曼荼羅堂やぐらの写真をたくさんデジカメに収め、小坪トンネルの真上を通って逗子側へと抜けたのだが、ほとんど気持ちの悪さを感じなかった。わたしが古い家屋やいわくつきの場所で撮影すると、たくさんの“シャボン玉”が写るのが最近の常だったのだが、曼荼羅堂やぐらでは1枚も写っていなかった。同じ鎌倉でも、気持ちが悪かった東勝寺跡の「高時切腹やぐら」Click!のような写真を、どこかで期待していたのだけれど・・・。^^; ひょっとすると、鎌倉市の教育委員会が調査中なので、“シャボン玉”のみなさんはどこかへ仮住まいをして、遠慮しているのかもしれない。

■写真上:鎌倉武士団の墓所である、曼荼羅堂やぐらの4階建て横穴墓。
■写真中上:わたしにとっては、物心つくころからの懐かしい名越切通しの風情。
■写真中下:上は、曼荼羅堂やぐらの一部。中が空っぽのやぐらは、五輪塔や宝篋印塔を取り出して教育委員会が調査中だからだ。下は、周囲に拡がる曼荼羅堂やぐらの180度風景だが、やぐらは画面の左右へまだまだつづく。その昔、このような光景の真ん中でお弁当を食べていた。
■写真下:左は、曼荼羅堂やぐらに隣接して設置された「無縁諸霊之墓」。右は、名越切通しから逗子側へ降りたところにある小坪の閑静な住宅街で、子どものころは田畑ばかりの斜面だったところだ。小坪隧道(小坪トンネル)は、この住宅街の真下を貫通している。