以前にもご紹介したが、東京に残る「バッケ」Click!あるいは「ハケ」Click!という言葉は、古くから東日本でつかわれてきた原日本語(アイヌ語に継承)ではないかと考えてきた。両語が同じような地形を指しているのは、目白崖線沿いの地域では「バッケ」、国分寺崖線沿いの地域では「ハケ」と呼ばれ、まったく似かよった場所の地名につかわれていることからも明らかだ。広辞苑の第五版には、「はけ:(関東から東北地方にかけて)丘陵山地の片岸。ばっけ」として採取されている。
 「バッケ」ないしは「ハケ」と呼ばれる地勢の特長は、河川の両岸の丘陵地帯で、比較的切り立った崖地状の地形をしており、道が通っているとしてもかなり傾斜のきつい坂道であることが多い。また、あちこちで丘陵に入りこんだ谷戸(yatu=脇の下/小谷)を抱え、崖地からは豊富な湧水のみられる土地がそう呼ばれている。つまり、急傾斜の段丘斜面で湧水源が多々あるところ・・・を、東日本では古来から「バッケ」ないしは「ハケ」と呼んできている。
 谷戸(yatu)の例でもわかるように、古代の人々(原日本人)は地形を人体にたとえて地名を付ける例が圧倒的に多かったようだ。江戸(etu=鼻/岬)、能登(notu=顎/半島)、木更津(kisara-tu=耳の海/湾)など、身体の一部を地形に見立てて表現していると思われるケースが多々みられる。漢字さえ当てはめられず、目白崖線沿いにカタカナのむき出しのままで残った「バッケ」という地名には、はたしてどのような意味が探れるのだろうか? ちなみに、漢字が当てはめられたところは「八景」「波毛」「白毛」「白家」などの文字が用いられ、「(お)化け」などと呼ばれた坂道などは、のちに「幽霊」などの同義語へと転化していそうなことは、すでに記事へ書いたとおりだ。後世に当てはめられた漢字では意味をなさない地名でも、原日本語の音を当てはめて読み解くと、案外すんなり地形が見えてくることが多い。
 
 「バ=ba」という濁音は、原日本語(アイヌ語)にはきわめて少ない。「バ」を、非常に転訛しやすい「パ=pa」とすると、「頭/頭部」という意味になる。「パ=pa」には、ほかにも「淵」や「岸」という地名につながる意味を持っている。次に「ケ=ke」だが、「削る」あるいは「造る」という動詞だ。そのままつなげれば、「パ・ケ=pa-ke」で「岸(淵)を削る」という意味になる。これが地名として用いられると、「パ・ケ」で「岸が削られた場所」ということになる。野川の国分寺崖線や、平川(現・神田川)の目白崖線を形成する河岸段丘の表現には、ピッタリのネーミングだ。
 ちなみに、平川の「平」は本来、「ピラ=pira」と発音されたのだろう。「ピラ」は、原日本語(アイヌ語)でも古朝鮮語でも共通で「崖」という意味だけれど、周囲に残る古くからの地名音からみて、目白崖線下を流れているピラ川は、原日本語から付けられているように思われる。余談だけれど、「ピラ」に「オ」をつけて「ピラ・オ=pira-o」とすると、原日本語では「崖っぷち」の意味になる。「オ=o」は、やはり人体の用語で「尻」を意味し、都内の「広尾」は確かに切り立った崖の多かった地域だ。そういえば、中村彝Click!が静養に出かけた場所は、茨城県の「平磯」Click!だった。これを原日本語で解釈すると、「pira-iso」で「崖のある豊漁地」という意味になる。「イソ=iso」には「豊漁(猟)」の意味があり、地名に当てはめられれば「豊漁地」、つまり豊かな漁(猟)場という意味だ。

 さて、東北弁ではフキノトウのことを「バッケ」と呼ぶのだそうだが、このような意味は原日本語(アイヌ語)にも古朝鮮語にも存在していない。ちなみに、アイヌ語でフキノトウは「ポ・カィ=po-kai」(子をおぶった者)だけれど、この語音が「バッケ」に転訛したとは考えにくい。東北地方のみの独特な方言ともとれるのだけれど、「水」のことを原日本語(アイヌ語)でそのまま「ワッカ=wakka」、「冬猟」のことを「マタギ=matanki(語源は「山の男衆」)」と呼んだりする地域がいまだに残る東北地方だから、やはりフキノトウの「バッケ」も原日本語の匂いがどうしてもするのだ。フキノトウが生える地勢に、削られたような斜面や崖地が多いことから、地名としての「パ・ケ=pa-ke」が関東と同様にそのまま「bakke」と訛り、いつの間にか植物名「バッケ」として転化、定着してしまったものかもしれない。
 さらに、深追いして調べてみると、千歳地方のアイヌ語方言に「パッケ=patke」という用語が残っている。これは名詞ではなく、「はじける」という動詞だ。まだ春が浅い時期、フキノトウが雪の地面から顔をのぞかせ、その先端が割れはじめる、つまりフキノトウの頭が「はじける」と春が間近いことを知った・・・という解釈はどうだろうか? 動詞でも、あるモノに当てはめられると名詞として通用するので、「バッケ(はじけるやつ)が出てくると、そろそろ春だなぁ」・・・と、昔の人たちは実感したのだろうか。バッケが顔を出すとウキウキする気風は、いまだ東北に残っているようだ。
 
 バッケの斜面は急なので、昔から住居を建てるのには適さず、また湧水が多く池沼を形成しているため、武蔵野原生林のまま残されるケースが多かった。江戸期以前は、村々の入会地として、また灌漑の水源や動植物の猟場として活用されたのだろう。現在でも、目白崖線に残る多くの緑が、バッケ状の地勢のエリアに集中しているのを見ても、それをうかがい知ることができる。

■写真上:バッケ下に咲くサクラで、背後の緑の丘が目白崖線。
■写真中上:目白崖線の急斜面にうっそうと生えた、いかにも武蔵野らしい広葉樹林。
■写真中下:大正初期ごろに、早大の戸塚球場(のち安部球場)から撮られた目白崖線。
■写真下:いまだにあちこちの崖から湧水が見られ、斜面の途中に小池を形成することも多い。カラー写真は、いずれも胸衝坂(胸突坂)にある関口芭蕉庵のバッケより。