戦後すぐのころ、1946年(昭和21)に目白・下落合地域を中心に「目白文化協会」Click!が結成されたのは、こちらでも何度か取り上げてきた。その中に、作者のわからなかった『明日の目白』と題する、1947年(昭和22)に制作された木版画についても触れた。先日、下落合ではお馴染みの吉田博Click!のご子孫であり、同じく洋画家/版画家だった吉田遠志のご子息でいらっしゃる吉田隆志様より、コメント欄へたいへん貴重な情報をいただいた。
 わたしはすんでのところで、「下落合を描いた画家たち・吉田穂高?」をアップロードするところだった。吉田隆志様Click!には、ここで改めて深くお礼を申し上げたい。ほんとうにありがとうございました。吉田様によれば、『明日の目白』の作者は落合中学校の近くに住み、そこで絵画教室を開いていた「海洲ショウタロウ(正太郎?)」という画家が描いた作品とのこと。作品には、「麥」(麦の旧字)というサインを入れていたことも、併せてご教示いただいた。また、海洲正太郎は吉田様のお父様と同じ、太平洋画会の同期出身らしいこともわかった。吉田様ご自身も中学生のとき、海洲邸の2階にあった海洲絵画教室へ通われていたそうだ。
 さて、さっそく調べてみると、海洲(州)正太郎という画家がいたことがわかった。いちばん新しい仕事は、1968年(昭和43)に出版された絵本『おさるのふうせん』(土家由岐雄/文憲堂七星社)の挿画と装丁を担当しているのが確認できる。それ以前の仕事で知られているのは、ちょうど目白文化協会が発足Click!したのと同じ年、1946年(昭和21)に出版された同じく絵本『花の南京』(土家由岐雄/雁書房)の挿画だ。土家由岐雄とのコラボレーションが多かったようで、土家の児童小説『ふえ吹きじいさん』などの挿画や装丁も担当している。
 
 国立国会図書館の目録によれば、海洲(州)正太郎には「かいしゅう・しょうたろう」とルビがふられているので、「海洲」=「かいず」読みが本名で、「海州」=「かいしゅう」が制作ネームだった可能性もある。また、ある時期に正太郎ではなく「将太郎」と名乗ることもあった。でも、データには生年没年の記載がないため、同図書館でも詳細な情報がつかめていないらしい。海洲正太郎も目白文化協会へ参加し、なんらかの活動あるいは協力をしていた。その一環として、版画『明日の目白』を制作したのだろう。当時、短歌雑誌を発行していた吉田穂高が主宰した、青年部「あらくさ会」とも少なからず繋がりがあったのかもしれない。「あらくさ会」は、徳川邸の黎明講堂(正式には「徳川生物学研究所講堂」)を借りて、毎月開催された「目白文化寄席」への参加をはじめ、文学や講演、ダンスパーティ、仮装大会などの企画を立案するため、連日連夜にわたり会合を開いていたようだ。
 余談だけれど、「あらくさ」とは「厳(いつ)の真屋に麁草(あらくさ)を厳の席(むしろ)と苅り敷きて」の祝詞(のりと)にちなんでいると思われるが、この祝詞は伊勢系ではなく「出雲国造神賀詞」Click!だ。下落合の総鎮守である氷川明神を、ことさら意識したネーミングだったのだろうか。あるいは、黎明講堂を貸してくれる出雲神(熱田のスサノオ)へ信仰厚い、尾張・徳川家に配慮しての会名なのだろうか。それとも、徳川義親Click!自身が青年たちのために名づけた会名だったものか?
 
 
 海洲正太郎は絵を描いたあと、画面左の枠外に「明日の目白 昭和廿二年四月 目白文化協會」と入れ、画面右下に「麥」のサインを入れた。この版画がどのような目的で制作されたのか、ハッキリとはわかっていない。目白文化協会主催の絵画展のような催しがあり、出品された作品のひとつなのだろうか。それとも、枚数が多く刷れる木版画にしたのは、協会のポスターや宣伝チラシとして用いるためだったのか。いずれにしても彼は仕上げた木版を、空襲からもかろうじて焼け残った第三文化村Click!の吉田アトリエClick!へ、刷りのために持ちこんでやしないだろうか?
 『明日の目白』を観ると、長い年月の経過とともにおそらくグリーンで表現されたとみられ、多くの画面を占める森林部分がグレーに変色している。江戸期の浮世絵版画にも多々見られるのと同じように、緑色の褪色現象だろう。下落合の目白崖線を描いているが、実際にはこのような地形や建物は存在しない。あくまでも、空想的なイメージとしての「明日の」目白界隈なのだ。
 
 尖塔のある、学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブ)に似た西洋館が描かれており、スパニッシュ風に赤い瓦屋根が多いけれど、まるでロシア正教かギリシャ正教の教会のような、ドーム状の丸屋根が描かれているのも面白い。海洲正太郎が夢みた未来の目白は、二度と空襲警報Click!のならない、疎開で次々と住民がいなくなり戦車で家々が破壊Click!されたりすることのない、のどかで落ち着いた、緑ゆたかな風景だったにちがいない。

■写真上:1947年(昭和22)4月に制作された、海洲正太郎の木版画『明日の目白』。
■写真中上:左は、遠景部の拡大。右は、「麥」と入れられたサイン部の拡大。
■写真中下:海洲正太郎が描いた、1968年(昭和43)刊の土家由岐雄・著『おさるのふうせん』(文憲堂七星社)の表紙。この当時は、「海洲将太郎」の制作ネームをつかっていたようだ。下左は「けんかこぶ」の挿画、下右は「大きな木」の挿画でともに同書所収。
■写真下:左は、戦後すぐのころの2両編成からいまや11両編成となった、神田川の鉄橋をわたる山手線。右は、日立目白クラブ(旧・学習院昭和寮)の尖塔のひとつ。