山梨県の観光を紹介する県の運営サイトで、1925年(大正14)の目白貨物駅、学習院の森、椿坂、そしてバッケ下の大黒葡萄酒Click!工場を撮影した、超貴重な映画Click!(5:59~7:44)が存在するのを、多田野飲兵衛さん^^;がご教示くださった。山梨県で醸造された葡萄酒の樽が、目白貨物駅へ運ばれてきて、そこから下落合10番地にあった甲斐産商店(大黒葡萄酒工場)へ運ばれる様子を、プロの映画スタッフたちがプロモーションフィルムとして35mmで撮影したものだ。
 わたしは、大正期の目白・下落合界隈の実際に動いている映像を初めて目の当たりにしたので、思わずその場で飛び上がってしまった。学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブ)が建設される前、「近衛町」Click!が造成されて間もないバッケ下の雑司ヶ谷道を、佐伯祐三Click!が『下落合風景』Click!で描いた「ガード」Click!方向へと歩いていく通行人までが映し出されている。そこで、山梨から目白貨物駅へ到着した葡萄酒樽が、大黒葡萄酒の瓶詰め工場へと運びこまれるまでの道筋を、映画の各シーンと現在の情景、そして地図類をたどりながら再現してみたいと思う。
 まず、当時の葡萄酒樽を積んだ馬車がたどった道を、詳しくてわかりやすい1938年(昭和13)に制作された「火保図」をベースにたどってみよう。大正期に撮影された目白・下落合界隈の稀有な映像というテーマがテーマだけに、きょうも記事がかなり長くなることをお許しいただきたい。

 
 
 
 まず、映像は貨車に積まれた葡萄酒樽が、目白貨物駅へと到着するところからはじまる。1938年(昭和13)の「火保図」では、すでに貨物駅専用のプラットホームが完成しているけれど、1925年(大正14)現在ではこのホームは存在していない。引き込み線の貨車から、樽はじかに線路と同じ高さの地面へと降ろされているシーンだ。シーン①は、引き込み線の方角から椿坂の擁壁(学習院側)を向いて撮影している。目白貨物駅は、現在でもほぼ同様の地形を見ることができるが、椿坂から一段下がった位置に存在していた。小島善太郎が描いた『目白駅より高田馬場望む』Click!でも、プラットホームがいまだ存在しない、坂から一段下の貨物駅エリアの様子が観察できる。これは、近々ご紹介する予定の、小熊秀雄Click!が描いた「下落合風景」でも触れてみたい。
 次のシーン②は、鉄道関係の建物や小屋が建ち並ぶ目白貨物駅の構内から、馬車がまさに椿坂へ出ようとしている瞬間の映像だ。山梨県が制作したナレーションでは、「目白通りと思われます」と解説しているが、明らかに誤りで(客車駅Click!近くの目白通りは大正末Click!になると、さすがにこのような鄙びた風情ではない)、山手線目白駅ホームの東側に設けられた貨物駅の広い構内を、椿坂の中途にある駅南の出入門付近から北を向いて撮影している。
 シーン③では、椿坂へ出てから坂をゆっくり下る馬車の様子を撮影している。椿坂は特徴のある坂道で、目白通りから傾斜のゆるいなだらかな坂道を下ると、途中で道は一度水平になり、その先で再び少し傾斜の深い下り坂となっている。映画のシーンでは、坂の途中にある水平の道から、再び坂道を下りはじめた馬車の様子がとらえられている。左手に見える電信柱Click!や、電力・電燈線の柱が林立しているところが、目白貨物駅の構内のあるあたりで、右手のこんもりした森が学習院だ。映像では、血洗池のすぐ西側にある小山がとらえられており、その南側にある空地まで映されている。「火保図」でも、この小山の様子が採取され描かれている。椿坂界隈の地形は、現在でもほとんど変わっておらず、小山の東側には血洗池が横たわっている。
 この映画の動画は、もう少し長いフィルムを短縮して編集されているようなので、ぜひノーカット版を見たいものだ。なぜなら、この馬車が椿坂を下って雑司ヶ谷道(東京府による新井薬師道)に突き当たり、それを右へ折れるとすぐに、佐伯祐三が翌年の1926年(大正15)秋に描いたとみられる『下落合風景』の1作、レンガで造られた当時の山手線ガードがあるからだ。

 
 

 
 さて、ガードをくぐったあとのシーンをたどってみよう。馬車が大黒葡萄酒工場(甲斐産商店)前に到着するシーン④では、樽を積んだ馬車とともに大きめの西洋館が映っている。これは、大黒葡萄酒を瓶詰めにする工場の東側に接して建っていた、事務をとるための甲斐産商店の東京社屋だ。この建物の前で葡萄酒樽は降ろされ、次々と工場内へ運ばれていく。当時、この下落合10番地の敷地には、甲斐産商店のオフィスと工場、宮崎光太郎の東京における自宅、そしてワイン蔵と思われる倉庫、さらには馬のための厩舎などが建てられていたと思われる。
 シーン⑤は、樽を積んだ馬車が到着する様子を、工場の建物側からとらえた映像だが、その向こう側に雑司ヶ谷道を山手線のガード方向へと歩いていく雨合羽を着た人物や、逆にガードの方角から早足でやってきた天秤棒をかつぐ蓑笠の棒手振(ぼてふり)ないしは荷運びが映っている。雑司ヶ谷道の向こう側、映像の正面には白っぽい倉庫のような小屋が現われるが、この建物はすでにこのサイトでも写真をご紹介していた。1933年(昭和8)に低空飛行で撮影された、学習院昭和寮(現・日立目白クラブClick!)の空中写真に、まさに大黒葡萄酒工場とともにこの建物もとらえられている。白っぽい建物の向こう側は、すぐに急斜面のバッケClick!(崖地)であり、丘上では造成されて間もない「近衛町」のオシャレな家々Click!が、次々と建設中だったはずだ。
 シーン⑥は、瓶詰めを終えた大黒葡萄酒が、トラックで東京市街へと出荷されていく様子をとらえている。甲斐産商店のオフィスと工場との中間あたりを、正面(北側)からとらえた映像だ。トラックの荷台横には、「大黒葡萄酒」の白い文字が書かれ、運転席の扉には若い女性が葡萄酒を手にするイラストが描かれていたのがわかる。現在、大黒葡萄酒の工場敷地全体は、1969年(昭和44)に建設された高田馬場住宅Click!の敷地となっている。
 
 
 さて、このフィルムに映された目白・下落合の情景の中で、もっとも気になるのがやはり佐伯が描いた「ガード」映像の有無だ。わたしがプロモーション映画の監督だったら、目白貨物駅で葡萄酒樽が降ろされ、馬車に詰みこまれて駅を出発し、椿坂を下ったあとのシーンには、どうしても雑司ヶ谷道を右折しガードをくぐり抜ける馬車のシーンを挿入したくなる。しかも、馬車といっしょに移動しながら、前方から撮影するカメラワークだ。椿坂から大黒葡萄酒工場へ到着する間にあるシーンを、山梨県の動画編集では冗長だということでカットしてやしないだろうか?
 貨物駅から椿坂までの様子を、かなり順を追ってていねいに、ドキュメントタッチで記録しているので、工場へと到着するまでの道筋に、もうワンシーン挿入されていてもいいような感触がどうしてもあるのだ。そこでとらえられた山手線ガードの映像は、わずか1年後に佐伯祐三がモチーフとして描いたように、赤いレンガで造られているはずだ。ひょっとすると、東側の土手上に建っていた変電設備などの鉄道関連の小屋、あるいは鉄道員の宿舎と思われる建物(「火保図」にも描かれている)も、馬車の前方を移動するカメラ位置なら、とらえられている公算がきわめて高い。

■写真上:左は、下落合10番地の甲斐産商店(大黒葡萄酒工場)跡地で、正面に見えるのは目白崖線と日立目白クラブの寮舎。右は、甲斐産商店の社長・宮崎光太郎。
■写真中上:上は、1938年(昭和13)制作の「火保図」にみる目白貨物駅で、赤い点線が馬車の運搬ルート。「火保図」では、すでに貨物専用のホームが描かれているが、1925年(大正14)の映画撮影の時点では存在していない。①は貨車から馬車へ樽を積み替えている様子で、正面に見えるのが「火保図」にも記号で表現されている椿坂の擁壁。②は、目白貨物駅の出入門のある南側の情景。画面の左手は山手線で、右手には椿坂が通っている。「火保図」にも、鉄道関連と思われる作業小屋や建物が数多く描かれているあたり。③は、椿坂を馬車が下っていく様子。現在でも右手の血洗池西に接した小山はそのままで、南の空地にはマンションが建っている。
■写真中下:上は、「火保図」にみるガードから西の下落合界隈。ガードをくぐった馬車は、ほどなく大黒葡萄酒工場(甲斐産商店)へと到着する。④は工場前における葡萄酒樽の積み降ろしで、⑤は工場側から到着する馬車を映したところ。雨もよいなのか、雑司ヶ谷道をガード方向へ歩いていく人物が合羽を着ている。黄色い▽印の小屋(倉庫?)は、すでにこちらでご紹介済みの建物だ。下の写真は、1933年(昭和8)に低空飛行で撮影された大黒葡萄酒工場の様子で、▽印が同一の建物だとわかる。⑥は、工場から東京市街へ出荷される大黒葡萄酒を積んだトラック。
■写真下:上左は工場内で行われていた大黒葡萄酒の瓶詰め作業で、上右は包装作業。下左は、大黒葡萄酒工場の北東角の敷地で、いまでも古い大谷石の縁石が見られる。下右は、椿坂から下落合側へと抜ける山手線ガード。この映画に、ぜひとも映っていてほしいシーンなのだ。
 
■おまけ:雑司ヶ谷道を急ぎ足で歩く、雨合羽の男(左)と棒手振りないしは荷運び(右)。