もう一度、相馬邸の下落合から中野への転居と、黒門の移築などの経緯をまとめてみよう。
-1939年(昭和14) 相続に関連して相馬邸が売却され、相馬家は下落合から中野へ転居
-1941年(昭和16) 太田清蔵が福岡に香椎中学校を設立、初代校長に長沼賢海が就任
-1941年(昭和16) 黒門の解体・移築作業がスタート、同時におそらく母屋の解体も開始
-1943年(昭和18)3月 香椎中学校の正門として黒門の福岡移築が完了
-1945年(昭和20)4月~5月 旧相馬邸の太素神社・庭門は空襲にも被災せず無傷で残存
-1945年(昭和20)秋 台風(枕崎台風?)により香椎中学校の黒門が倒壊、すぐに修復
-1946年(昭和21)4月 香椎中学校の経営者だった太田清蔵が死去
-1947年(昭和22)秋 台風の余波とみられる突風によって再び黒門が半壊
-1947年(昭和22)秋~冬 香椎中学校の生徒たちが半壊だった黒門を押し倒して全壊
-1948年(昭和23)4月 香椎高等女学校と合併し福岡県立香椎高等学校が誕生
-1950年(昭和25) 下落合の太素神社を福島県小高町へ移すために社殿を解体・撤去
-1952年(昭和27) 福島県小高町の相馬小高神社で遷座祭が行なわれ奥の院として設置
-1969年(昭和44) 相馬邸の跡地が地元の強い要望で「新宿区立おとめ山公園」として開園
-1990年(平成2) 福岡市で黒門付属の中間長屋と出番所(袖)を解体、重要部材を保存
-1996年(平成8) 香椎高等学校のシンボルとして黒門(門部のみ)を改めて新規復元
-2007年(平成19) 旧相馬邸敷地(おもに庭園部)である「おとめ山公園」の大幅拡張が決定
 まず、1915年(大正4)に相馬家が下落合へ新邸をかまえる以前、相馬邸は戸塚村大字源兵衛字バッケ下Click!の東側段丘上、すなわち現在の「甘泉園」に邸をかまえていたと伝えられる例が多いけれど、このとき黒門は甘泉園に建っていたのだろうか? 実は、この甘泉園にあった「相馬邸」が、もうひとつの大きな謎なのだ。下落合へ転居する以前、まだ御留山が近衛家の所有地だったころに制作された、1910年(明治43)の「戸塚1/10,000地形図」を見ると、甘泉園は「相馬邸」と記載されているだけで、門や邸が建っていたらしいフォルムや記号の描きこみが見られず、敷地は単に池や築山のある庭園のみの表現となっている。甘泉園=相馬邸の記載は、さまざまな地図にも見られ、なんと相馬邸が下落合から中野へと引っ越してしまったあと、1940年(昭和15)の地図でも甘泉園は相馬邸と記載されているのだ。
 1930年(昭和5)の地図から、甘泉園の高台に大きな建物が描かれているけれど、門の記号は相変わらず地図上には見えない。これに対して下落合の相馬邸には、はっきりと黒門の位置が門記号とともに採録されている。この甘泉園と下落合で二重に記載された相馬邸については、また機会を改めて書いてみたいけれど、おそらく明治期の甘泉園に記載された相馬邸(相馬庭園ないしは寮?)に、黒門は存在しなかったと考えたほうが自然だ。この課題は、実は相馬郷土研究会が2001年3月に発行した『相馬郷土』3月号の田原口保貞「相馬中村藩邸黒門のゆくえ」でも、黒門が甘泉園からではなく、明治以降に明治政府の命令で転居させられていた、津和野藩亀井家の旧邸(外桜田=現・内幸町)の門を移築したものだ・・・という論旨とともに、チラリと触れられている。
 
 「相馬中村藩邸黒門のゆくえ」ではまた、『「黒門」ものがたり』で指摘されている津藩(藤堂藩)ないしは南部藩(盛岡藩)の門ではないかとの伝承に対して、「俗説と思わざるを得ない」としている。わたしも同感で、実は津藩の藤堂家上屋敷の門は明治初期に写真に撮られて現存しているのだが、相馬邸の黒門とはまったく異なるデザインの両袖門だ。これらの藩は10万石を超える石高の大名であり、門がまえの形式が片袖門(出番所がひとつ)ではなく、両袖門(出番所が両側にふたつ)だったはず・・・なのだ。いまに伝わる一般的な格式の解説にしたがえば、5万石以下の大名は片袖門、5万石以上が両袖門(慣例として簡素な切妻仕様ないしは片屋根の簡易出番所)、10万石以上が唐破風仕様の豪華な屋根の出番所を配した両袖門・・・ということになる。でも、これら門がまえの格式には、より細かな譜代別(譜代も格式が分かれる)や外様別の暗黙の“お約束”があったと思われるのだけれど、詳しいことはいまに伝わっていない。「相馬中村藩邸黒門のゆくえ」から、相馬邸の黒門の由来についての謎に迫った部分を引用してみよう。
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 では、ここで浮上させるとすればあの内幸町の旧亀井藩邸の表門を移築したのではないかということである。何故ならば相馬藩は六万石であるので、表門の出番所は左右におかれなければならない(五万石以上は両番所)。南部藩は二十万石・藤堂藩は三十余万石であるので、表門の当然両番所がなければならない。これは旧幕藩時代の規制であり、必ずしもそれに従うことはないわけではあるが、移築の際にわざわざ取り外したとは考えられない。/したがって、単純な考えで恐縮だが、この門は津和野藩主旧亀井藩邸の表門であった可能性が極めて高い。 (同誌より)
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 わたしも、この推理に傾きかけたのだけれど、ややひっかかる点がある。それは、下落合の相馬邸に移築された黒門が、4万3千石の津和野藩の片袖門※にしては、袖(出番所)が破風仕様であり豪華すぎること(中間長屋も豪華で大きい)。片袖門の場合、向かって左側に出番所が設置される例が多いが、相馬邸の黒門は向かって右(ありえないことではない)に設置されていること。中村藩相馬家は、6万余石と小大名にもかかわらず帝鑑間詰め譜代だが、津和野藩亀井家は外様であること(豪華な門は内証が豊かだとして幕府に睨まれやすい)・・・などなどだ。
 ※その後、津和野藩上屋敷の門は片屋根(庇)仕様の簡素な両袖門だったことが判明している。もちろん、相馬邸の黒門とはまったく異なる意匠Click!をしていた。
 これらを総合的に考えると、中村藩の相馬家上屋敷は両袖門だったことはおそらく間違いないが、その格式が譜代だったので10万石以上の大名によく見られる唐破風の出番所を許されていたのではないか。ましてや相馬家は、鎌倉期以前より連綿とつづく生っ粋の関東武士団の末裔であり、格式からいえば同じ関東武士団の末裔である世良田家(徳川家)と対等または格上だったはずだ。そして1868年(明治元)、明治政府が相馬家へ津和野藩上屋敷への引っ越しを命じたとき、江戸期の慣習が抜け切れない当時としては、門をそっくり移築したか、あるいは解体した部材をそのまま持って転居したのではないか?・・・ということなのだ。
 とりわけ家や結構の格式を重んじたであろう当時(いまだ感覚は江戸時代のままだっただろう)、「これからは、なにもかもが新しい時代だから」・・・と、いきなり片袖門の屋敷へ入ることに諾々と従ったとは、どうしても思えないのだ。相馬家の上屋敷から転居先の亀井家上屋敷まで、わずか300m前後の距離にすぎない。当時の大江戸(おえど)Click!大工の腕前からすれば、作業人数にもよるが解体はわずか数日で済んでしまっただろう。つまり、下落合の相馬邸の正門になっていた黒門は、もともと中村藩上屋敷の表門そのものではなかったか?・・・という可能性だ。
 
 では、なぜ片袖門になってしまったのか、その可能性はふたつ考えられる。ひとつは、転居先の津和野藩上屋敷には片袖門を建てるだけの門スペースしかなかったためだ。だから、片袖を落として移築せざるをえなかった。(いまだ格式を重んじる当時としては非常に考えにくいケースだが) また、もし仮に津和野藩の上屋敷へ相馬藩の両袖門が建てられたとすれば(両袖門の部材を邸内へ保管したケースも含む)、片袖になった理由は次の時代にある。つまり、下落合の相馬邸敷地に、両袖門が建てられるのに十分な水平で直線状の道が“足りなかった”ということだ。時代が大正初期にもなれば、6万石の相馬家の門はどうしても両袖でなければならない・・・といった、門がまえについての江戸期の結構や格式に対する頑迷な考えは、さすがに薄れてきていただろう。
 ここで、黒門が建っていた下落合の道路を思い起こしていただきたい。東西に走る相馬邸の北面道は、途中で大きく「く」の字に屈曲している。西側の直線に走る道路に面して、長屋つきの長大な両袖門を建てようと思えば建てられたのだろうが、ここにはどうしてもスペースを確保しておかなければならない、表門の移築などよりももっと重大な理由があった。相馬邸内にあった、太素神社(妙見社Click!)の社殿を、参道や鳥居、神輿蔵、付属蔵ともども丸ごと設置しなければならなかったからだ。(この妙見社も明治初年、相馬藩上屋敷から津和野藩上屋敷へ移築されていた可能性がある) 下落合の相馬邸を上空から見ると、主な屋根の配置が北斗七星のフォルムClick!に見えるのだが、妙見社の安全かつ確実な移築はこの転居における相馬家の最優先課題だったろう。したがって、黒門の位置はどうしても東寄りにならざるをえなかった。でも、東に寄せると「く」の字の屈曲部に、どうしてもかかってしまう。だから、やむなく左側の袖(出番所)や長屋を落として片袖門となった・・・。
 いっそのこと「く」の字に屈曲した先、東側の道路に面した位置なら、まだまだスペースがあったのでそちらへ移築すればよかったのに・・・と、いまの道路状況を見るとつい思ってしまいがちなのだが、大正時代の周辺の地形を想定していただきたい。現在は、戦後の地下鉄工事で出た土砂によりずいぶん水平にならされているけれど、大正初期は林泉園Click!の湧水源からの渓流が流れる谷間に向かって、道はかなり傾斜していたはずなのだ。中間屋敷が付属する長大な両袖門を、傾斜面の坂道に建てるわけにはいかない。こうして、下落合の相馬邸は両袖の黒門を移築しようとしてはたせず、片袖のままになってしまった・・・という推測はいかがだろうか。
 
 
 さて、下落合の相馬邸から移築された黒門は、福岡市で1990年(平成2)までその半分(中間長屋や出番所)ながら見ることができた。現在でも、先述した「香綾会館」を訪ねれば、その重要部材を見ることができるのだろう。でも、黒門の門部自体は、すでに1947年(昭和22)の突風と生徒たちの“ダメ押し”で倒壊して以来、その姿を消してしまった。現在、同校の黒門として建っている正門は、1996年(平成8)に新しく復元されたもので、太い門柱にはカナダ産のヒバが使われている。

■写真上:左は、下落合の相馬邸内に建立されていた太素神社(妙見社)の参道跡で、現在でも行き止まりの路地となっている。右は、1914年(大正5)に撮影された邸内の参道と拝殿。
■写真中上:左は、明治初期に撮られた唐破風の出番所を備えた両袖門だが場所は不明。相馬家上屋敷にあった両袖の黒門も、このような風情だったろう。右は、1864年(元治元)にフィリップス・ベアトが愛宕山から撮影したパノラマで、内濠の向こうに津和野藩上屋敷が見えている。
■写真中下:左は、ベアトが大江戸市街を撮影したのと同年、1864年(元治元)に改訂版が出た尾張屋清七版の切絵図「麹町永田町外桜田絵図」。同切絵図の“お約束”によれば、名前の向く頭方向の家紋の位置に屋敷の表門は建っていたことになる。右は、1947年(昭和22)現在の下落合・相馬邸跡。母屋の建物は、空襲前の1944年(昭和19)以前に解体されている。
■写真下:上左は、相馬邸跡の北側に接する道路の大きく屈曲した部分の現状。上右は、下落合の相馬邸から福島県相馬郡小高町の相馬小高神社の奥の院として移築された太素神社(妙見社)の現状。下左は、1996年(平成8)に撮られた香椎高等学校の新しい黒門の棟上式。下右は、復元直後の黒門の様子。香椎高校の新「黒門」は、いずれも同年に出版された『「黒門」ものがたり』より。