SSブログ

下落合からたどる「黒門」物語。(中) [気になる下落合]

香椎黒門1947ごろ.jpg
 1945年(昭和20)の秋に来襲した台風(枕崎台風?)で、香椎中学の黒門はあっけなく倒壊してしまう。下落合に伝わってきた「黒門は台風で倒壊した」という風聞は、おそらくこのときの出来事を伝えているのだろう。だが、再建修理は早々に行われたらしい。翌年には、すでに修理を終えた黒門の下を生徒たちがくぐって登校している。
 しかし、この再建修理が戦後の混乱期のことでもあり、修理用の部材も良質なものが手に入らなかったのか、かなり無理を重ねた中途半端なものだったとみえ、黒門は1947年(昭和22)の秋に、今度は台風の余波とみられる突風で、再び柱が大きく傾いてしまった。このときは半壊状態で危険なため、黒門の通行が禁止されている。今度は、敗戦直後のようにすぐに修理するというわけにはいかなかった。前年の1946年(昭和21)4月に、香椎中学校の大きなうしろ盾だった太田清蔵が死去し、同校は経営難から同年12月より、福岡県へ県立移管を申請しはじめていたからだ。おそらく、黒門の修理どころではなく、学校の存続さえ危ぶまれていた時期だったろう。
 黒門を最終的に全壊させたのは、どうやら突風のしわざではなかったようだ。『「黒門」ものがたり』には、黒門にとどめを刺した「犯人」の「告白文」が収録されている。
  
 私たちは、中学五年生でした。それより半年か一年ぐらい前に門が半壊して、傾いだ主柱につっかい棒をして補修をしていましたが、少し修繕したかと思うと何カ月も手がつけられず、瓦は落ちたまま屋根は斑になっていました。/子供心に、修繕するなら早くやればいいのに、やらないのなら、あんな陰気でみっともない門なんか片づけてしまえばいいのにと、友達同士で話し合ったのを覚えています。/と、言うのは、汽車通学で途中顔を合わせるA中学の生徒が、黒門をサカナにしては私たちの中学のことをバカにするからです。/「おまえは、どこの学校や」/「香椎たい」/「ああ、寺子屋の奴か」/「寺子屋とはどうゆうことや」/「門は、寺の門、中身は寺子屋、先生は時代後れのチョンマゲちゅう話じゃ」/「なんばこっきょるとかア」/と、いうことで殴り合いが始まる。
                                   (同書収録の村田善鴻「黒門記」より)
  
香椎黒門1947ごろ部分.jpg
 確かに、長屋や袖(出番所)などの全体を見ず門部のみを見れば、どこか寺院の山門のように見えなくもない。また、明治以降は大名屋敷の門を寺院の門として移築した事例も多々見られるので、逆に大名屋敷の門がことさら寺院の門のように見えてしまったのかもしれない。こうして、周囲からバカにされるのは、半壊でみじめな黒門があるからだとの想いが募るばかりだった生徒たちは、黒門さえなければ・・・ということで、相撲が得意な友人に力だめしの誘いをかけた。
  
 同じ汽車でH君というのが通っていた。体もガッチリしていて力も強かった。/「おい、お前がいくら力が強かっても、あの門は倒しきらんじゃろうねー」/「なーんばいうとや、あんなもんわけはなか」/「じゃー、やってんやい」/「おう、よか」/それで、最敬礼をしていた柱を両手でドーンと、一発ついたら、一抱えもある柱が簡単にひっくり返ってしまった。/「ウォー・・・?」/台風一過、空は藍色に抜けていた。(同上)
  
 このときに倒壊した(生徒たちが倒した)のは門の部分だけであって、もちろん右手の出番所(袖)や中間長屋の建物は健在だった。その後、黒門の残骸は撤去され、1948年(昭和23)4月に福岡県立香椎高等学校として再スタートをするのだけれど、ついに黒門自体が再建されることはなかった。でも、門の半分である中間長屋や袖(出番所)は、そのまま1990年(平成2)まで建っていたのだ。その重要な部材、鬼瓦や雲版(うんばん)、斗供(ときょう)、懸魚(げぎょ)、虹梁(こうりょう)などは、同市の香椎高校同窓会組織である香綾会の「香綾会館」に保存されている。
黒門1936.jpg 黒門跡2009.JPG
 さて、『「黒門」ものがたり』を読んでいたら、下落合に住んでいるわたしが「あれ?」と思う、気になる箇所がいくつか見られたので、以下に少しまとめて整理してみたい。
◆「赤門」と「黒門」の解釈
 同書では、大江戸Click!の加賀藩上屋敷(現・東大敷地)のみが「赤門」Click!だったように書かれているけれど、将軍家の娘を嫁さんにもらえばどの藩でも「赤門」が構えられたわけで、当サイトでも佐賀藩松平鍋島家の上屋敷「赤門」Click!をご紹介しており、前田家の赤門は一例にすぎない。
◆相馬邸の買収時期
 太田清蔵が相馬邸を買収したのは孟胤の死後、相続税の支払いに絡み相馬恵胤が下落合から中野に転居する1939年(昭和14)ごろであり、1937年(昭和12)ではない。それは、1938年(昭和13)に下落合の邸内畳廊下で撮られた、相馬雪香の写真Click!を見れば明らかだ。
◆「おとめ山」の表記
 おとめ山は、将軍家の鷹狩場としての幕府直轄地で、立入禁止という意味の名称「御留山」に由来しており「乙女山」ではない。もちろん天領なので、大名の下屋敷が建っていた事実もない。ただし、幕末には御留山に隣接して幕府の大旗本である酒井家の下屋敷(寮)が建っていた。
◆相馬邸の消滅
 下落合の相馬邸は、1945年(昭和20)5月25日の山手空襲で焼失したのではない。陸軍の空中写真Click!でも明らかなように、1944年(昭和19)にはすでに邸の建物は存在せず、相馬邸敷地を東西に横切る道路がすでに造成されており、同年以前に解体されている。
◆「東京三十五区区分地図帳」の不正確
 上記に関連して、1946年(昭和21)に制作された同地図Click!は、相馬邸に限らず東京の「焼失域」や「建物疎開域」の色分け区分が非常に大雑把だ。戦後、米軍が爆撃効果測定用に撮影した空中写真と比較すると、実際の被害地域と同地図の色分けには少なからず齟齬が見られる。したがって相馬邸に限らないが、同地図を被災の“裏付け”とするには不正確さがともなう。
黒門出番所1947ごろ.jpg 復元黒門1996.jpg
 次回は、もうひとつ別の角度からの視点、相馬家の国許である福島県の相馬地方から見た、黒門の物語を追いかけてみよう。地元の相馬郷土研究会Click!が2001年3月に発行した『相馬郷土』3月号掲載の労作、黒門の“謎”に迫った田原口保貞「相馬中村藩邸黒門のゆくえ」からだ。貴重な同資料をお送りくださったのは、将門相馬家ご一族の相馬彰様Click!だ。
                                                  <つづく>

■写真上:終戦直後に接道から撮影された、香椎中学校と黒門(右端)。
■写真中上:上掲写真の部分拡大で、いまだ門が見えているので1947年(昭和22)秋前の姿。
■写真中下は、1936年(昭和11)に撮影された下落合・相馬邸の黒門。は、現在の同所。
■写真下は、黒門の出番所前で撮られた写真で、雲版の様子がはっきりわかる。は、1996年(平成8)に復元された黒門。香椎中学の写真は、いずれも『「黒門」ものがたり』より。


読んだ!(10)  コメント(11)  トラックバック(1) 

読んだ! 10

コメント 11

sig

こんにちは。
前回は続編があるのを知らずに早とちりしてしまいました。
こんな風に紆余曲折があるのですね。
それをまとめ上げられたご努力と手腕はすごいです。
更に続きそうですので、楽しみにしております。
by sig (2009-06-25 07:08) 

ChinchikoPapa

大山咋神が坐す神域には、ときおり人の手が加えられたとみられる巨石が存在しますけれど、古代日本の巨石信仰がのちに大山咋神信仰へと収斂されているのかもしれませんね。nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
by ChinchikoPapa (2009-06-25 13:00) 

ChinchikoPapa

sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
すみません、記事がやたら長くて。(汗) 退屈されそうですが、もう少しおつき合いください。実は、このあと江戸期からつづく黒門自体の「謎」をめぐる物語がありまして、その「謎解き」がいちばんやっかいなのです。
したがいまして、(下)がいちばん長くなりそうなのです。(爆!)
by ChinchikoPapa (2009-06-25 13:04) 

ChinchikoPapa

うちも義姉夫婦が家庭菜園に凝ってまして、ジャガイモやキュウリなどをときどき送ってくれるのですが、採れたてはほんとうに美味しいですね。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2009-06-25 14:02) 

ChinchikoPapa

ときどき、掲載されている写真のようなデザイン・仕様のカードや絵ハガキをいただくのですが、「ヴィジュアル・ポエトリー」というジャンルなのですね。nice!をありがとうございました。>ナカムラさん
by ChinchikoPapa (2009-06-25 14:11) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>漢さん
by ChinchikoPapa (2009-06-25 14:13) 

ChinchikoPapa

すてきな言葉の数々です。
nice!をありがとうございました。>shinさん
by ChinchikoPapa (2009-06-25 14:19) 

ChinchikoPapa

ベースが雨だれのように聴こえる同作は、なんとなく雨の庭を観ながら聞きたいサウンドです。新しい作品ですね、未入手です、nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2009-06-25 14:26) 

ChinchikoPapa

裕福と貧乏の「貧乏」よりも、精神の貧困(貧乏)のほうが創造(想像)する力をどんどん削ぎ落としていくという意味では、よほど怖いですね。nice!をありがとうございました。>SILENTさん

by ChinchikoPapa (2009-06-25 16:06) 

ChinchikoPapa

原由子のアルバムは、1枚だけ持っています。スパニッシュモード全開の『夏の日の想い出』が入っていたので、つい買ってしまいました。nice!をありがとうございました。>yuki999さん
by ChinchikoPapa (2009-06-25 16:12) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2009-07-01 22:48) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 1

トラックバックの受付は締め切りました